岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!
 

信長のもう一人の「猿」に隠された謎

 

歴史には「レアなケースが記録される」という鉄則があります。
史料に残されている事柄は「珍しいこと」「特別なこと」「重要なこと」です。
だから、史料ってのは裏を読んでゆくと、いろいろ出てきますね。
『信長公記』の巻八に『山中の猿御憐憫の事』ってのがあります。
「美濃と近江の国境、山中という場所に『山中の猿』と呼ばれる、身体に障害を持った物乞いがいた。
信長は京都と岐阜を往来するたびに見かける。
『普通、物乞いというのは住所不定なのに、なぜこの者はいつもここにいるのか?』
と信長公が里の者にたずねると、里の者は『親の因果が子にむくいうんぬんかんぬん』と由来を説明した」
この「山中」は現在の岐阜県関ヶ原町山中にあたります。
中山道の関ケ原宿と今須宿の中間ぐらいの、いい雰囲気の集落です。
ここには関ケ原合戦のときの大谷吉継の陣所があるんですが、その話はまたいずれ。
大垣の拙宅から車で30分ぐらいの場所です。
冬はけっこう雪が積もります。川の水がとってもきれいなところ。

 


天正三年六月二十六日(1575)、
「信長は突然岐阜から山中の里を訪れ、木綿二十反を自分でとりだし、
『これを山中の猿に与える。里の者はこの反物半分を使って小屋を建てて住まわせ、餓死せぬように米と麦をとらせ、面倒をみるように』と命じた。
山中の猿はもちろん、里の者や信長の伴の者まで、その情の厚さに落涙した」とある。
この当時、木綿はまだ国産に成功しておらず、すべて輸入に頼っていました。
十反で小屋が建てられて、のこり十反で終身年金に相当する米穀に代えらえるほどの超高級品だったわけですな。
ここまでは「意外にやさしい織田信長」って文脈で語られるのがほとんどです。
「信長 山中の猿」で検索をかけると、どっさり出てくるエピソードですしね。
だけど、ちょっと待ってくださいな。
これ、ヘンでしょう? どこがヘンか。
つまり、この信長の施しは、
1)いつ 2)どこで 3)誰に 4)何を 5)どうしたか
をみんなにアピールしている。
信長は意外と信心深く、伊勢神宮やら熱田神宮にもいろいろ寄進してますが、それと名もしれぬ物乞いとでは、事情がちがう。
だから、この「山中の猿への施し」は、何か別の意図があったと考えるのが自然ですよね。
なにがあったのか。
信長は、いったい何をしたかったかというと、
1)「猿」が山中にいるのを誇示し
2)信長がそのことを知っていることを誇示し
3)山中の猿の身元を伏せておくこと
がしたかったのは、だいたい想像がつく。
でも、これでも何のためなのかはわからない。

そこで、摂津石山・本願寺顕如との抗争がキーワードになる。
この五年前の元亀元年(1570)九月、摂津の本願寺顕如と信長との抗争が表面化しました。
はじめ長島の一向一揆衆は優勢でしたが、天正二年には織田に潰されてしまいます。
本願寺顕如との戦いが山場をむかえている時期でもありました。
徳川家康は三河国内の一向宗本願寺派を禁教にしましたが、信長は支配地内での一向宗を禁止した様子はみられません。
三河と違い、美濃・近江は一向宗(浄土真宗)の中興の祖・蓮如と関係が深い。
一向宗を敵にまわすと、家中が二分、どころではないんですな。
それで、だ。
「山中の猿は本願寺顕如の忍者だった」
と考えるとすべての答えが出るんですね。
『孫子』でいう「郷間(きょうかん・敵の村人をスパイとして使う)」のことです。
 

 



とにかくこの山中という場所、いまでも東海道本線・東海道新幹線・中山道・国道21号線が通る、交通の要所です。
岐阜から京都に行くにはここを通るのが最短距離です。
信長がいつ、どちらに向かって走ったかを、山中の猿が定点観察して本願寺顕如に知らせれば、それだけで信長の次の行動が予測できる。
信長は、ここを通るたびに「山中の猿」に行動をチェックされているのが気になっていたんですね。
そこで信長は山中の猿を殺すよりも、「俺はわかっているんだぞ」と、これみよがしに厚遇して村人に監視させた、というわけです。
関ヶ原町山中には、こんな道祖神があります。
「見真大師」つまり一向衆の開祖です。
山中もまた、昔から一向衆の力が強い土地だったわけ。

 


常に死と隣り合わせの生活をしていた戦国時代、宗教は生活に密着していました。
山中の猿は、どんな気持ちで信長の往来をみていたのかしらん。
なまんだぶ、なまんだぶ。
(了)