船頭たちの様子「江戸八景 隅田川の落雁」より(国立国会図書館蔵)

江戸の男は、女の陰部を見慣れていた。湯屋(銭湯)は男女混浴が普通だったからだ。

風紀が乱れるもととして、幕府は寛政3年(1791)1月、混浴を禁止した。しかし、なかなか完全には実行されず、天保12年(1841)に始まった天保の改革でようやく江戸の湯屋は男湯と女湯が厳密に区別された。逆から言えば、江戸時代後期の天保12年まで、江戸の湯屋は混浴が珍しくなかったのだ。

また、当時、男が平気で外で立小便をしていたのと同様、庶民の女も道端にかがみ、とくに男の視線を気にすることもなく尻をまくって平気で放尿していた。こんな状況だったから、冒頭に述べたように、男は女の陰部を見慣れていた。ただし、見慣れていたのはあくまで外観である。

文化11年(1814)4月1日、数寄屋橋(すきやばし)の近くの堀で、18、9歳くらいの女の水死体が浮いていた。若い船頭たちが集まってきて、「なかなかいい女じゃねえか」などと評していたが、そのうち誰からともなく、言い出した。「せっかくだから引きあげて、あそこをたっぷり拝ませてもらおうや。なかはどうなっているのかな」死体を舟に引きあげ、みなで陰部をひらいてのぞいた。最後はシジミの貝殻を陰部に詰めるという悪ふざけをして、引き潮にのせて死体を海に流した。

その夜、船頭のひとりが高熱を発し、「あら、情けなや、女の隠しどころを見るさえあるに、あられもなきことまでして突き流したる恨み、報わでやあるべき」と女の声色でわめきながら、狂いまわった。

『我衣(わがころも)』に出ている話である。船頭は、江戸ではもっとも粋な職業と言われていた。江戸っ子の代表でもある。その船頭たちの所業は上記の通りだった。死者に対する畏敬の念は皆無である。

しかし、女の陰部をもてあそんだのは残酷と言うより、男のスケベ心はどうしようもないと評すべきであろう。もちろん、ひんしゅくものであるのに違いはないのだが、男には大なり小なり、こうした性的好奇心や逸脱はある。もちろん、筆者もふくめての話である。

その夜、船頭のひとりが狂乱したのは、やはり良心の呵責があったからであろう。一種の精神錯乱である。ほかの船頭たちは女の怨霊が乗り移ったと伝え聞いて、ゾッとしたに違いない。