織田信長肖像画/写真提供アフロ

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。
 

永禄8年(1565)8月より、織田信長は中濃に位置していた鵜沼(うぬま)城、猿啄(さるばみ)城、堂洞(どうほら)城、関(せき)城、加治田(かじた)城の諸城を攻撃した。

永禄9年(1566)にかけて、城は戦闘や調略によって降ろされた。さらに、永禄10年(1567)8月1日、西美濃三人衆である稲葉良通(よしみち)、氏家直元(うじいえなおもと)、安藤守就(もりなり)などを調略し味方につけ、井口の斎藤龍興(たつおき)攻めを始めた。

しかし、美濃斎藤攻めが思うように進まなかった信長は、美濃の背後で京への上洛の過程となる近江を味方につけるため、北近江の浅井長政(あざいながまさ)と同盟を結ぶことを思いついた。不破光治(ふわみつはる)を使者として送り同盟を促したが、朝倉氏と姻戚であり、浅井と不仲だった信長に対し、浅井家中では賛否両論があり同盟は進まなかった。

仕方なしに、力攻めで稲葉山を攻略することとし、まずは、町に火をかけ、はだか城にした信長は、城を取り囲み、ついに8月15日に龍興を降参させた。龍興は伊勢長島に敗走。信長は33 歳にして斎藤道三の予言通り、美濃一国を手に入れたのである。 

永禄11年(1568)、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」(『信長公記』)と岐阜に移転した。これは、周の文王が岐山から興って天下を取った故事にならったといわれている。(続く)

 

 

●岐阜城データ
城の種類/山城
在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。