復元天守と鯉(長谷川ヨシテル)

 

こんにちは。長谷川ヨシテルでございます。

今回ご紹介するのは「鯉城(りじょう)」の異名を持つ『広島城』です。

広島城は、毛利輝元(元就の孫)が1589年に築城を始め、その10年後に完成したお城です。かつてこの付近一体が「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていて、「己斐」の音が「鯉」に通じることから、「鯉城」と呼ばれるようになったそうです。「広島カープ」のチーム名も鯉城に由来します。

さて、広島城と言えば「毛利家」のイメージは強いと思うのですが、大河ドラマの主人公にもなった毛利元就の時代には広島城は存在せず、当時は吉田郡山城を本拠地としていました。これがまた、西国街道(山陽道)や瀬戸内海から非常に遠い。

現在の安芸高田市にあるのですが、広島駅からバスで1時間半の場所にあります。政治や経済の中心地としての城郭が必要な秀吉の時代になると、吉田郡山城の立地では不便で時流の波に取り残されてしまいます。そこで建てられたのが広島城というわけなのです。

このお城のモデルとなったのは、秀吉が建てた大坂城や聚楽第だったと言われております。広島城の築城を開始する前年に秀吉から招待を受けて、「毛利の両川」として知られる輝元や叔父の吉川元春や小早川隆景は、この2つのお城を実際に見学したそうです。

政治経済の中心地を目指した広島城は、瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に建っています。この地に政治経済の中心地である城下町を広々と設けたのですが、もちろん防御面も怠ってはいません。

縄張り図を見てもわかる通り、お城の周りを流れる豊かな水を蓄えた河川が何本も流れています。これが天然の水堀となっていて敵を容易には寄せ付けません。

そして、広島城で特筆すべきは櫓の多さです。三重に巡らされた堀の要所に置かれた櫓の数は、何と88基。これは日本一の多さだそうです。

つまり、広島城は近づいてきた敵に対しての防御は鉄壁。城壁は横矢掛(よこやがかり=横からの攻撃)が出来るようにデコボコに折れ曲がり、天守の1階部分には袴腰(はかまごし)型の石落(いしおとし)が備えられ接近戦には無類の強さを誇っております。

このように近世城郭としての諸々の条件をクリアしている広島城は、名古屋城や岡山城と共に「日本三大平城」の1つに数えられているのです。

ところで、広島城の築城には、とある武将がアドバイザーとなって深く関係していました。その武将とは、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛です。

吉田郡山城からの引っ越しを考えた毛利輝元は、まず家臣たちに縄張り案を出させます。そこで挙がってきたのが、太田川河口の三角州に築くという案でした。

ところが輝元は、この縄張りに不安を覚えたと言います。

「ここは川の真ん中の平地だけど、防御面は大丈夫か?」

相談を受けた小早川隆景(輝元の叔父)は、豊臣秀吉の軍師であり築城名人でもある黒田官兵衛にアドバイスを求めました。すると官兵衛は「問題ない。広島城は要害として十分機能する」と助言をしたと言います。官兵衛のお墨付きをもらえたということで、毛利家は広島城の築城を始めました。

しかし、低湿地に堀を造り、城地を底上げする「島普請」と呼ばれる基礎工事は大難航…建築費が相当かさんでいく中、輝元は2年後にようやく入城でき、完成には10年もかかりました。そして、輝元入城の翌年、「朝鮮出兵」へ向かう秀吉が広島城へ立ち寄ることとなります。

毛利家が苦労を重ねて築城している広島城の縄張りを見た秀吉は思わず笑い出し、こう言ったそうです。

「何だこの弱い城は!この縄張りだったら“水攻め”で簡単に落としてしまうぞ!」

 

そうなのです、三角州に築かれた広島城は“水攻め”にやたら弱いお城だったのです。水攻めとは、お城の周りに堤防を築いて水没させる、秀吉が「備中高松城」を攻めた時に代表される城攻めの方法です。つまり、天然の要害として周囲を流れる太田川などを堰き止めてお城に流し込めば、ザ・平城の広島城はすぐに沈んでしまうというのです。

輝元からしたら「言わんこっちゃない!」です。

責められた隆景はこう説明したと言います。

「要害ではないからこそ良いのです。毛利の城が要害ならば、秀吉様からあらぬ疑いを招きます。官兵衛殿は毛利家のことを想って、この地に築城を勧めてくれたのです」

確かに腑に落ちることは落ちますが、工事に大金を使っている輝元は「官兵衛にはめられた!」と少なからず思っていたに違いありません。

また、眉唾物ですが、こんな話もあります。九州に領地を持っていた官兵衛は、日本の中央で大きな戦があった時に九州を制圧して中国地方に攻め入る計画があったそうです。(「関ヶ原の戦い」の時に決行したが未遂に終わった)

その計画を優位に進めるために、毛利家にわざと弱いお城を築かせたと言います。備中高松城の水攻めを秀吉に提案したのも官兵衛だったことを考えると、ひょっとするとひょっとするかもしれません。(また、工事にかかった相当な出費も、毛利家を経済的に弱体化させるための策だったとも)

広島城が水に弱かったというのは、江戸時代の記録でも残されています。毛利家の後に城主となった福島正則は、1619年に幕府に無断で崩壊した石垣を修復したということで改易されていますが、石垣が崩壊した原因は洪水でした。

その後、幕末まで約250年間、城主を務めた浅野氏の時も度々お城は洪水でダメージを受け、修復に多大な費用がかかったと言われています。

このように、周囲の河川を天然の要害とし、日本一の櫓の数を擁した広島城は、黒田官兵衛の(良い意味でも悪い意味でも)毛利家を想う心によって築かれた、水攻めされたらひとたまりもない『最弱の城』の1つだったのです。

 

 

長谷川ヨシテル プロフィール

1986年埼玉県熊谷市生まれ。県下有数の進学校・熊谷高校から立教大学へ進学後、硬式野球部にも在籍。さらにバイオリン演奏やポケモンも得意など多彩な“歴史芸人”。自称、芸能界で一番戦国時代が好きな「れきしクン」。