デモが単なる「自己啓発の場」になっている

 わしは団塊の世代よりもひとつ下の世代だから、全共闘の運動が最後は内ゲバの殺し合いになり、ボロボロになって雲散霧消していく様子を批判的に見ていた。あの学生運動がそうなったのも、それぞれの「個」が確立されておらず、所属するセクトに埋没してしまい、組織の論理でしか行動できなくなったからだろう。それと同じ問題が、1995年、薬害エイズの「支える会」にも発生した。これは政治運動が抱える宿命のようなものかもしれない。

 ところが団塊の世代は、自らそういう総括をしていなかった。自分たちの「個」が確立していないことにも気づいていない。きっと、大学を出た後は社会人として組織に埋没していたのだろう。だからSEALDsの若者たちが安保法制反対デモを始めると、定年退職して組織を離れていたジジイどもが昔を懐かしがってそこに集まってきた。同じことのくり返しである。

 薬害エイズのときもそうだったが、そういう運動に集まる大人たちは、知識人やマスコミも含めて「政治意識に目覚めた若者」を手放しで賞賛するのが常だ。若者も、そういう大人に「いい子、いい子」と頭を撫でられると、自分が立派な人間になったかのように錯覚してしまう。自分では何も考えていないのに、デモにさえ参加すれば「いい子」になれると思い込んでいる学生も大勢いるに違いない。そうやって「個」を確立する機会を失い、集団に飲み込まれていくSEALDsの若者たちは、薬害エイズ当時の学生たちとまったく同じである。

 わしは個人主義者として近代的な「個」の存在を信じていたが、日本ではそれが成り立たないのかもしれない。だから、みんないとも簡単に集団に取り込まれ、「個」を失っていく。

 その一方で、「自分のため」に何かをするという欲求は旺盛だ。「薬害エイズ患者のおかげで運動に参加し、充実した毎日を送ることができる」と演説した学生も、原告のために始めたはずの運動が、いつの間にか自己実現の手段になってしまったのだろう。

 デモが自己啓発の場になっており、安保法制を食い止めるという本来の目的はどうでもよくなっている。もはやそれは「自分のため」の運動であって、そこに「他人のため」に尽くす公共心はない。

 また、集団に「個」を埋没させた組織人も、自分の利益は必死で守ろうとする。犯罪に手を染めたオウム信者は「教祖が悪かった」、厚生省や製薬会社の奴らは「上層部が決めたこと」などと弁解して、責任を引き受けようとしない。これは、本来の「個人主義」とは違う。いわば「自分主義」だ。日本人は「何をするのも私の勝手でしょ」という態度を個人主義だと勘違いしており、だから公共心を持てないのではないか―わしはそんなふうに考えるようになった。「公」を意識し、そこでの責任を引き受ける主体性を持つことが、本当の個人主義であることに気づいたのだ。

『新ゴーマニズム宣言』第14章 運動の功罪ー日常に復帰せよ より