新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

『戦友姿絵』は、中島登(なかじまのぼり)が箱館戦争敗戦後に、青森や箱館での幽囚生活中に描いたものだ。近藤勇・土方歳三以下29人の新選組隊士(自身の自画像も含む)の勇姿を描いている。「時勢に押し流され虜囚(りょしゅう)となった鬱屈と、戦死した同志への追慕と慰霊の気持ち」から描いたと序にある。構図も手抜きがなく丹念で筆力も力強い。私はこの『戦友姿絵』の中に、登の新選組に託した彼の一切がこめられている気がする。

では、彼が託したものとは何か。

彼の生まれた八王子は徳川家康が特別な思いを注いだ土地だ。同じ愛知県出身の天下人といっても信長や秀吉は都市型の人間だが、家康は農村型だ。家康は農村を愛した。その協同精神を愛した。秀吉によって関東地方に移封されてもその気持ちは変わらない。それが「江戸にも自分の理想とする農村を残したい」と思い立ち、甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持を任務とする千人同心(せんにんどうしん)の創設を含む多摩地域への思い入れとなったのだ。代々天領とされ千人同心を保つこの地域には、いきおい徳川家に対する忠誠心が培養された。

新選組はこういう風土から生まれた。近藤も土方も同じで登もそのひとりだった。新選組の「士道(しどう)ニ背キマジキ事」という法度は、逆にいえば「入隊者はすべて武士として扱う」ということである。身分解放をこの段階でおこなっている。私はこの精神が明治以後の多摩地方の自由民権運動の起源だ、と思っている。

登にはそういう理念があったのではなかろうか。当初の諜報活動で彼は底辺に生きる人々の実態をしっかり見た。京都での近藤や土方の活動は登にとって理想であり憧れの的だ。自分の参加したいという希求心は日に日につのる。しかし出遅れた。この遅れは動乱の時代には致命傷だ。登ははじめからこの致命傷をハンデとして抱きつづけた。