上賀茂神社(賀茂別雷神社)とともに、世界文化遺産に登録される下鴨神社(賀茂御祖神社)。
古来、自然と信仰が調和した、森の古社の歴史をたどる。


[鴨川と賀茂川の境目になぜ神社が建った?]

 市街東部を流れる鴨川は、高野川との合流地帯より上流を賀茂川と表記する。その名は、流域に鎮座する上賀茂神社と下鴨神社(合わせて賀茂社)に由来する。
「三つの川の流路は古代から変わらず、合流地点の糺の森も原生林の面影を残しています。賀茂社もまた、平安京の造営以前からこの地にありました」と京都の歴史を研究する、立命館大学客員協力研究員の本多健一さんは語る。
「賀茂社を創祀したのは、古代山城国の豪族だった賀茂氏であり、現在もその祖神が祀られています。もともと上賀茂にあった賀茂社が8世紀半ば頃に分かれ、三井社のあった現在地に下鴨神社が鎮座しました。分立の背景には、賀茂氏の勢力を弱めたかった当時の朝廷の思惑があると考えられます」。
 では、なぜ糺の森に神社が置かれたのだろう。
「確かな史料はありませんが、二つの川に挟まれており、水の中を歩いて禊をしなければ参詣できない聖地だったから、という説はあります。そして神域だったからこそ、現在まで深い森が守られてきたのです」。

 

[京都の神様は清流を好んだ?]

“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず”で始まる鎌倉時代のエッセイ『方丈記』。作者の鴨長明は賀茂氏の家系であり、下鴨神社の神官の子である。早くに父を亡くした長明は神職を諦め、芸術の道を歩んだ。
 和歌の名人として知られる長明は、糺の森の情景をいくつも詠んでいる。その一つに、“石川や瀬見の小川”で始まる歌がある。
「“石川の瀬見の小川”とは、『山城国風土記』の逸文に記された賀茂川の異名で、賀茂社の創祀にまつわる伝承の舞台となっています。話の概略はこうです。瀬見の小川で遊んでいた玉依日売が、流れてきた丹塗りの矢を持ち帰ったところ、男児を懐妊します。後に男児が雷神の子だと分かったというものです」と本多さん。
 その男児、可茂別雷命は上賀茂神社の祭神(賀茂別雷大神)、玉依日売(玉依媛命)とその父の賀茂建角身命は下鴨神社の祭神である。長明のこの歌は、川面に映る月の情景を描くと同時に、清流に由来する賀茂社の縁起を伝えたものと言える。


[葵祭(賀茂祭)はなぜゴージャス?]

 平安京への遷都以来、天皇の使者(勅使)が派遣される勅祭として続く賀茂祭は、現代では葵祭として親しまれる。盛大な行列が街を練り歩く様子は、5月の風物詩だが、原初の姿は、雨をもたらす雷神を崇めて五穀豊穣を祈る祭りだったという。
「現在も執り行われる御蔭祭や賀茂競馬などは、古来の祭祀の面影を残しています。一方、斎王代の行列で知られる路頭の儀は勅祭の行事です。平安時代以後の賀茂祭は、神社固有の祭祀と国家的祭祀が組み合わさった構成となっています」。
 きらびやかな行列が街を練り歩く光景は、平安文学『源氏物語』『枕草子』にも描かれており、当時から見物人で賑わっていた。
「大都市ならではの『見られる祭り』という性質から、祇園や伏見稲荷の祭りと競い合うように規模を拡大しました。京都の祭礼の華やかさは、そうした歴史の積み重ねの結果なのです」。
 

鴨川デルタ

監修/本多健一さん
立命館大学客員協力研究員。
著書『京都の神社と祭り』(中公新書)、『中近世京都の祭礼と空間構造』(吉川弘文館)など。