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江戸の春画を見て誰しも感じるのは、描かれている陰茎の巨大さである。みな巨根といってよかろう。諸外国の春画には、このように陰茎を現実離れした大きさに描く風習はなかった。わが国独自の伝統と言えよう。

わが国の春画の伝統である陰茎の誇大描写の歴史は古い。『古今著聞集』には、ある画僧が鳥羽僧正に、
「男根は実物以上に大きく書くもの」
と述べる有名なエピソードがある。

つまり、すでに平安時代には、春画で陰茎を巨大に描く伝統が確立していた。では、なぜ、現実離れした大きさに描くのだろうか。春画本来の目的である猥褻感をそいでしまうのではなかろうか。

じつは理由はよくわからない。

江戸の性 第15回 [江戸時代の風習「お歯黒」と中国の風習「纏足」]

で、わが国のお歯黒の風習の由来はよくわからないと述べたが、陰茎の誇大描写も同様にその由来はよくわからない。ただし、類推はできる。

かつて女郎屋(妓楼)や芸者置屋、料理茶屋など、広い意味での水商売の店では、帳場に巨大な陰茎の形をした金精神(こんせいじん)を祀っていた。また各地の街道には、男女の性器を模した石の道祖神(どうそじん)が祀られていた。性器を五穀豊穣や商売繁盛と結びつける民間信仰である。隆々と勃起した陰茎が信仰の対象となることが多い。この考え方が春画にも持ち込まれたのかもしれない。

明治になると、近代化を進める政府は西洋人の目を必要以上に気にして、従来のおおらかだが猥雑な風俗を矯正しようとした。明治5年、風俗取締令が施行され、諸所で祀っている金精神はすべて廃棄するよう命じた。

『漫談明治初年』によると、横浜では巡査が遊廓の妓楼を一軒一軒、調べてまわり、金精神をすべて押収した。押収した多数の金精神を箱につめ、巡査ふたりが担いで持ち去る。吉田橋のたもとまで来たところで、ふたりが相談した。「こんなものを持ち帰っても、しかたがあるまい」
「どうせ捨ててしまうのだ」
「面倒だ、ここで捨ててしまおう」

相談はまとまり、ふたりは橋の上から、
「それっ」
と掛け声もろとも、箱にびっしりとつまった金精神を川のなかに放り込んだ。ところが、金精神は張子である。中身は空気である。沈むどころか、浮く。多数の巨大な男根が川一面にひろがり、プカプカとただよい出した。まさに壮観である。いつしか川の両岸は黒山の人だかりとなり、みな水に浮かんだ男根を指さし、やんやの喝采を送る。いまさら回収することもできず、ふたりの巡査は橋の上で、
「こりゃしまった、こりゃしまった」
と頭をかかえていたという。

なお、明治や大正期の春画を見ても、江戸の伝統を受け継いで陰茎はかなり大きく描いている。陰茎の誇大描写の伝統は根強かったといえよう。しかし、すでに写真の時代になっていた。春画にとってかわったのが白黒のポルノ写真である。ポルノ写真が江戸の流れを汲む春画を滅ぼすと同時に、陰茎の誇大描写の伝統も滅びた。現在ではポルノ写真もすでに過去のものとなり、アダルトビデオ全盛である。