この国に足りない、民主主義の「ソフトウェア」

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「イギリスの人民が自由なのは選挙の間だけであり、選挙が終われば奴隷となる」ルソー(1712~1778)は『社会契約論』でこう論じた。
 日本では今月、参議院議員選挙と東京都知事選挙が行われ、各メディアもたくさんの話題を取り上げている。選挙権を得た18歳の若者たちが参加する初めての選挙ということもあって、民主主義の権利を行使するために投票へ行こうと呼びかける言説も数多くあった。
 しかし、私たちが政治に参加できるのは選挙の時だけなのだろうか。投票所に行って投票することだけが民主主義なのだろうか。それではルソーが言ったように、私たち日本の一般国民も、自由なのは選挙の間だけであり、選挙の後には奴隷になってしまうのではないだろうか。

「民主主義」という概念は、選挙や多数決だけではなく、他にも多様な概念を含むものである。丸山眞男(1914~1996)は、民主主義という概念には(1)「政治形態(Democratic Government)」(2)「社会機構(Democratic Society)」(3)「生活ないし行動の様式(Democratic Way of Life)」という三つの対象があるとした。このうち、(1)(2)は、統治機構や法制度など、民主主義の「ハードウェア」の面であり、(3)は人々の意識や考え方、態度、生き方など、民主主義の「ソフトウェア」の面だと言えるだろう。
 現代、日本を含む多くの国々では、民主主義の「ハードウェア」の面が整備されている。しかし、民主主義の「ソフトウェア」の面がしっかりと根付き、運用されている国は少ないのではないだろうか。
 どれほど高性能なハードウェアを備えたコンピューターでも、ソフトウェアがなければまともに機能しない。それと同じように、民主主義をより良いものにしていくためには、統治機構や法制度といった「ハードウェア」の面だけではなく、それを運用していく私たちの意識、考え方、態度、生き方のような「ソフトウェア」の面も、より民主主義的なものにしていくことが不可欠である。

 

民主主義には、忘れてはいけない態度がある

 プラグマティズムの哲学者にして日本では教育学者として知られるジョン・デューイ(1859~1952)は、民主主義にとって「生活様式」としての側面、すなわち民主主義の「ソフトウェア」の面こそが、第一に重要なものであると論じた。
 個人は共同体の中で生活し、他者と触れ合いコミュニケーションをすることで、相互に影響を与え合いながら協働生活を営む。共同体の中では意見の対立が生じるが、その時に必要とされるのは、他者を自らと対等な存在とみなし、意見の相違があっても知性を用いた議論を行うことで、対立を乗り越えていこうとする態度である。
 対立し合う者同士は、意見が対立してもお互いに自分たちの共同体をより良くしていこうという意識を共有した仲間として見なし合い、互いの意見を表明する機会を与え、時に対立する相手から多くを学び、自らの意見を変えることもある。民主的な共同体の中で育まれる、人々のこういった生活様式、態度、生き方こそが、民主的な統治機構や法制度など、民主主義の「ハードウェア」を、より良く運用していくために不可欠な「ソフトウェア」となる。

 民主主義とは、数年に一度の選挙の時にだけ現れるものではなく、私たちが日頃、他者に接する際の態度においても現れるものなのである。こういった観点から考えれば、現代日本では民主主義はまだ不十分であると言わざるをえない。
 現状では、左右の両陣営が互いに相手方を頭ごなしに批判し合っているように見える。特に、民主主義の擁護を積極的に掲げている左派陣営の中にも、相手方の主張を曲解したり、人格的に否定するかのような主張が見られるのは、深刻な事態である。
 相手方を頭ごなしに否定して「悪」と断じれば、自らの「善」を実感できることだろう。しかし、それでは自らと意見の異なる者を説得し、意見を変えさせて、自らの仲間に引き入れることは不可能である。
 民主主義において重要なのは、頭ごなしに他者を否定することではなく、異なる意見を持つ他者を認め、議論を重ねることで説得し、意見を変えさせるということである。今回の参議院議員選挙で左派の議席が伸び悩んだのは、民主主義の擁護を掲げていた側の人たちにおける民主主義的な態度が不足していたことが一つの要因なのではないだろうか。
 選挙や多数決も、もちろん、民主主義の主要な要素の一つである。だが、わずかな選挙期間の間だけで全ての情報を知り、議論を尽くして十分な判断をすることはなかなか難しい。民主主義をより良きものにしていくためには、私たち一人ひとりが日頃からどのような態度で過ごすのか、その「生き方」こそが問題となるのである。