吉原見物は江戸定番の観光コースだった

 
 

吉原は幕府公認の遊廓であり、男の歓

吉原全景。桜並木の中央大通り「仲の町(なかのちょう)を挟んで左右に妓楼や茶屋が並ぶ。〔東〕都名所〔新〕吉原〔五〕丁町〔弥〕生花〔盛〕全図/国立国会図書館所蔵

楽街だった。場所は千束村(せんぞくむら)、現在の台東区千束4丁目の一帯で、浅草の浅草寺(せんそうじ)の裏手にあたる。

もともと吉原は2代将軍秀忠(ひでただ)の時代、現在の中央区日本橋人形町のあたりに開業した。ところが江戸の中心部に遊廓があるのは不適当として幕府は移転を命じ、明暦3年(1657)、千束村の地に移って営業を再開した。4代将軍家綱の時代である。移転後は正式には新吉原だが、吉原といえば普通、この新吉原をさす。本稿でも新吉原を吉原という。

現在、かつての吉原の地はソープランド街となっている。その意味ではいまも昔も男の歓楽街に変わりはない。しかし江戸時代、吉原を訪れたのはいわゆる女郎買いの男だけではなく、多くの観光客や見物客もつめかけた。

藩主の参勤交代に従って初めて江戸に出てきた務番(きんばん)武士はまず吉原見物をしたがったし、江戸見物に来た老若男女にとって浅草の観音様(浅草寺)に参詣したあと吉原見物をするのは定番の観光コースになっていた。

吉原は江戸最大の観光地であり、現代のアミューズメントパークに似た側面もあった。豪華絢爛たる衣裳を着た上級遊女が多数のお供を従えて練り歩く花魁(おいらん)道中はまさにパレードといえよう。そのほか、年間を通じて各種のショー、イベントも開催されていた。

江戸のどこから行っても入り口は唯一「大門」だけ

吉原は田園地帯のなかにあり、敷地は約2万坪。周囲を「お歯黒どぶ」という堀と高い塀で囲まれた閉鎖空間だった。吉原へは江戸のどこから来るにしても、最後は日本堤(にほんづづみ)という一本道を駕篭(かご)か徒歩でいかねばならない。日本堤から五十間道(ごじゅっけんみち)をくだると、唯一の出入り口である大門(おおもん)があった。

大門をくぐると、別世界である。中央をつらぬいているのは仲の町(なかのちょう)と呼ばれる大通りで、ここは華麗なイベント広場でもあった。仲の町の両側には引手茶屋が軒を連ねている。

俗に五丁町と称される区画には大小の妓楼(ぎろう、遊女屋)が立ち並び、およそ3000人(多いときは7000人を越えた)の遊女がいた。

そのほか茶屋や料理屋、湯屋、各種商店もあり、路地をはいった裏長屋には芸人や職人なども住んでいた。

文/永井義男(江戸文化評論家)

客で賑わう吉原唯一の入り口「大門」。引手茶屋からは遊女たちが顔をだしている。「あづまの花 江戸繪部類」国立国会図書館所蔵