後に天智天皇となる中大兄皇子と、藤原鎌足となる中臣鎌足が、蘇我入鹿を討ったとされる有名な暗殺事件。世に知られる「大化の改新」は、その事件後に行われた政治改革のことであり、事件自体は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれている。まずは一般的に知られている飛鳥時代最大の政変劇を追って行こう。
伝飛鳥板蓋宮跡

■横暴さを増すばかりの蘇我氏に対し、中臣鎌足が動き出す

 推古(すいこ)天皇の跡を継いだ舒明(じょめい)天皇が崩御し、舒明の妻・皇極(こうぎょく)天皇が天子(てんし)の座に就いた。「大化の改新」のクーデター(乙巳の変)の3年前、642年のことである。女帝の治世下で権力をふるったのは、推古、聖徳太子とともに3頭政治を担った蘇我馬子(そがのうまこ)の息子、蘇我蝦夷(えみし)

 蘇我氏は、馬子の娘と故・舒明天皇の間に生まれた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇にしようと画策。643年に有力候補だった聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を斑鳩宮(いかるがのみや)に急襲したが、山背大兄王は一時、生駒山へ退避した。「東国へ逃れて軍勢を集めるべし」との部下の忠告に対し、山背王は「そうすれば勝つだろう。だが自分のために民衆に苦労はかけたくない」と斑鳩寺(斑鳩宮に隣接する法隆寺の前身)へ戻ると、妻や子供たちとともに首をくくり自殺して果てた。

 蘇我氏の横暴は増すばかりだったが、翌年には中臣鎌足が動き出す。反蘇我の皇族を渡り歩き、最初は軽皇子(かるのみこ)(後の孝徳天皇)のもとに身を寄せる。次には中大兄皇子(なかのおおえのみこ)(後の天智天皇)が蹴鞠のときに飛ばしたくつを拾い、近づいた。

 中大兄皇子と鎌足は、蘇我氏の誅殺を計画した。2人は蘇我氏の傍流の倉山田石川麻呂(くらのやまだいしかわまろ)を、その娘と中大兄皇子が婚姻することで仲間に引き入れる布石を打った。そして計画が実行される。

 645年6月、飛鳥宮(あすかのみや)で朝鮮半島の三韓(高句麗、百済、新羅)からの朝貢の儀式が行われることになった。中大兄皇子と鎌足は、直前に石川麻呂へ謀議を打ち明けた。そして石川麻呂が、朝貢の上表文(じょうひょうぶん)を皇極天皇の前で読み上げる隙に、出席した蘇我入鹿を刺客が斬る手はずとなった。鎌足は俳優(わざひと)(宮廷詰めのお笑い芸人)をつかって、入鹿の剣を腰から外させ、儀式は始まった。

 ところが、上表文を読み終えそうになっても、刺客はおびえて動き出さない。石川麻呂は焦って汗を流し、声と手は震えたため、入鹿に怪しまれてしまった。だが、その瞬間、業を煮やした中大兄皇子らが自ら飛び出すと、剣で入鹿の頭や肩に斬りつけた。

 入鹿は皇極天皇の足元ににじり寄って「いったい私が何の罪を犯したというのですか」とすがりつくと、天皇もこの事態に驚いて「どうしたのだ」と息子の中大兄皇子を問いただした。中大兄皇子が「入鹿は皇位を絶とうとしている」と説明すると、天皇は無言で宮殿の奥へ消えた。天皇がいなくなると、刺客たちが入鹿にとどめを刺した。

 中大兄皇子は飛鳥寺(法興寺)に軍勢を集め、防御された居所に立てこもる蘇我蝦夷と対峙した。蝦夷側の軍勢から離脱者が相次ぎ、翌日、蝦夷は自害した。

 ここに蘇我本宗家は滅亡した。


《飛鳥最大の政変〝大化の改新〟 第2回へつづく》