織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

信長は主だった戦闘もなく斎藤龍興(注)が敗走した稲葉山城に永禄11年(1568)に入っている。

フロイスが見た4階建ての建物は、やはり麓(ふもと)の斜面を利用して掛け造りにより階層的に見せた御殿とするべきであり、フロイスや山科言継(やましな ときつぐ)が見た山頂の御殿は、城主の居住空間として斎藤道三時代に遡る建物群がそのままの形で残っていたものを利用したものと考えられる。

城の成り立ちから考えても、城郭施設としての大櫓(やぐら)が存在した可能性はあるが、信長段階での山頂の居住用の天守の存在の可能性は考えられない。今後山頂で発見されるであろう天守は、おそらく信忠か池田が城主だった段階に建設されたものと考えられる。 

現在の天守は明治43年(1910)に岐阜市保勝会の手で建てられた木造3層3階の模擬天守が昭和18年(1943)に焼失し、昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート建築3層4階で建てられた模擬再建天守である。

当代随一と言われた絢爛豪華な信長の城は記録でしかわからない。(続く)

 

(注)斎藤龍興/さいとう・たつおき 父・義龍の死にともない13歳で家督を継ぐが、信長に敗北。祖父・道三が信長に送った譲り状通り、を信長に与える結果となる。

 

●岐阜城データ
城の種類/山城
所在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。