織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

近江を中心とした元亀(げんき)の争乱を経て、信長包囲網が崩壊し畿内に敵がいなくなった信長は、さらなる「天下布武(てんかふぶ)」を目指すために西へとその勢力を伸ばそうと考えていた。

そして、天正3年(1575)11月8日に嫡男信忠が秋田城介(じょうのすけ)を拝命したのを機に、織田家の地位と岐阜城を譲り、自らは天正4年(1576)1月より、安土に移転し安土山に築城を開始するのである。

そして岐阜城を得た信忠は、岐阜城の改築を始めた。しかし、信長と信忠は天正10年(1582)6月に本能寺の変で絶命。それに乗じて家臣の斎藤利堯(としたか)が岐阜城を乗っ取った。明智光秀が羽柴秀吉に敗れると斎藤利堯は織田信孝(のぶたか)に降伏。翌年の清洲会議を経て信孝が兄信忠の美濃を拝領、岐阜城の城主となった信忠の嫡子三法師の後見役として在城した。

 

●岐阜城データ
城の種類/山城
所在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。