織田信長肖像画(写真提供/アフロ) 

 

天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家が敗れ、信雄により岐阜城を攻撃され降伏。信孝は切腹。代わって池田恒興(つねおき)が大垣城主、池田元助(もとすけ)が岐阜城主となった。 

天正12年(1584)の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いで池田父子が討死したため、恒興の次男輝政の居城となった。

天正19年(1591)4月からは豊臣秀勝が城主。文禄元年(1592)には織田秀信が城主として返り咲き、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを迎える。秀信は西軍につき岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政に攻められて落城。高野山に追放され、最後の城主として慶長10年(1605)に死亡した。 

城主は斎藤道三以降池田輝政を除き、全員非業の死を遂げている。翌年に家康は岐阜城を廃城とし、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)に加納城を築城させた。この時残っていた建物が移されたという。(了)

 

●岐阜城データ
城の種類/山城
所在地/岐阜県岐阜市天主閣18
築城年/建仁元年(1202)
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。