古代史上屈指のミステリー、蘇我入鹿殺害事件。実行したのは中大兄皇子や中臣鎌足の一派だが、その背後には様々な背景や、黒幕の存在が見え隠れする――!? 中大兄皇子と中臣鎌足を操った影の人物を暴く!!
 

■皇位継承をめぐる問題としたたかな孝徳天皇の才覚

 「大化の改新のクーデターで、得をしたのは誰か?」という問いかけを糸口に、この謎に挑むと、あぶり出されるもっとも有力な人物は軽皇子(かるのみこ)(後の孝徳天皇)だ。それはクーデターの結果、皇位継承という〝果実〟をもぎとった人物だったからだ。

 当時、天皇になる条件は後の皇太子に相当する「大兄(おおえ)」であることや、父母が天皇であることなどだった(女帝は別)。いずれの条件も満たさない軽皇子は、即位する可能性はほぼゼロ。即位するためにはクーデターを引き起こすしかない。

 軽皇子が最近まで注目されてこなかったのには理由がある。『日本書紀』には、孝徳朝は中大兄皇子の傀儡(かいらい)政権だった、とのニュアンスで記述されているためだ。しかし、近年の文献史学の研究や、孝徳が都をおいた難波宮(なにわのみや)の発掘などにより再評価されてきた。
 

 軽皇子があなどれない存在だったことを示す逸話がある。蘇我入鹿暗殺を実行するために中臣鎌足が最初に声をかけたのは、中大兄皇子ではなく、軽皇子だったのだ。結果的に、鎌足はパートナーを中大兄皇子へと変えているが、鎌足が軽皇子に声をかけたのも、皇族の中で蘇我氏に対抗する実力者だったためだろう。

 さらに山背大兄王(やましろのおおえのおう)自殺事件(643年)が挙げられる。山背大兄王は聖徳太子(しょうとくたいし)の子で次期天皇の有力候補だったが、入鹿に追い込まれて自殺した。この事件は不遜(ふそん)な入鹿を暗殺する大義名分となった。

 しかし、山背大兄王を追い込んだ蘇我氏の軍勢に、なぜか軽皇子も加わっている。皇位継承のライバルをひとりでも減らすため、蘇我氏とともに山背大兄王を亡き者にしたのだろう。ほどなくして軽皇子は足の病との理由で出仕(しゅっし)しなくなった。これは、敵の多い蘇我氏との距離を保とうとしたとも考えられる。

 その後、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れることに成功した。こうした高度な根回しは若干19歳の中大兄皇子には荷が重く、皇族の中でもリーダー的存在だった軽皇子の協力があったと考えられる。

 

《「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第3回へつづく》