コミケ連中は、本当に漫画を愛しているのか?

イラスト/山田玲司

 僕はコミケが大嫌いだった。
 80年代のオタクに多かった「嫌味で気持ち悪い感じ」も、「内輪ノリで排他的な感じ」も嫌だったのだけど、漫画家になるために子供の頃から地道に何作も漫画を描いて、傷つくことばかりの「出版社への持ち込み」を繰り返していた僕にとって、プロの漫画やアニメのキャラを使って許諾も得ずに勝手に商売している連中が許せなかったのだ。

 コミケの連中は「私たちは漫画を愛しているのだ」みたいな顔をしていたけど、本当に漫画を愛していれば、プロの漫画が作者やスタッフや編集者の壮絶な苦しみの中から生まれることくらい知っているはずだ。
 そんな「作り手の努力」を無視して、自分達の同人誌の中で、気に入ったキャラにやらせる事は欲望むき出しの「ポルノ」にするのが定番だ。
 しかも「売り上げが数千万円の人もいる」なんていう話まで聞く。
 もちろんその売り上げが、オリジナルの漫画を描いた本人に送られた、なんて話は聞いたことがない。
 僕にはとても彼らが「漫画を愛している」とは思えなかった。
 それは「2次創作」というジャンルの文化ですよ、と言う人もいるけれど、利益を上げながら「無許可」ってのはひどい話だ。
 プロの漫画家は、制作中に何らかの「著作権に関わる表現」があった場合、編集と相談して正式な許可を貰うか、その表現を取り下げたりもしているのだ。
「大手の流通に乗るメジャー出版で描いていれば、それなりの利益もあるんだから、それくらい別にいいじゃないか」と言う人もいるけど、漫画家のほとんどは一夏で1000万も稼げないのが普通だ。単行本を出してもギリギリの暮らしをしている人がほとんどなのだ。
 そんなわけで、僕は長いこと「コミケ否定派」の漫画家だった。

 

コミケにいる「ありのままの人達」

 ところが、この夏ちょっとした流れでこの「コミケ」なるものに参加することになった。ニコ生の企画で作ったオリジナルの本を、コミケに出展する事になったのだ。
 僕もいいかげん大人になってて、コミケに対する嫌悪感も収まり、冷静に文化としてのコミケを見てみたくなってきてもいたし、最近は「TPPで無くなるかもしれない」という危うい状況のコミケに同情的でもあった。

 噂通り、夏のコミケは凄まじい人の数と熱気に、ほのかな異臭が立ち込めていた。
 コスプレイヤーはコスプレコーナーに、漫画の販売はみんな行儀よく目当てのサークルの列に並んでいる。
 それぞれが「自分の好きな漫画やアニメの世界」に没入したまま会場に存在している。
 彼らには自分にとっての「神」がいるのだけれど、それはそれぞれが好きな「コンテンツ(漫画、アニメ、ゲーム)」の中にいるので、プロレスの興行やアイドルのコンサートのように、その対象は会場にいる「みんなと同じ」ではない。
 むしろ「私だけがその魅力がわかるキャラ」とか、あえてマイナーなキャラを推すことで、センスを競ったりしている世界だ。

 会場をよく見ると、キャラそのものになってる完璧なコスプレイヤーの他に「これはコスか?」というきわどい格好の人も多い。
 特に目につくのが「女装」だった。どう見ても「たくましい男」が、セーラー服やレオタードやお姫様みたいな格好でさっそうと歩いている。
 そして誰もその事に動じない。それぞれが「なりたい自分」になって、勝手にやっているのだ。
 むしろいつもの自分なんかは社会に合わせて演じてやってる「仮の自分」で、これが「ありのままの私なのです」みたいな感じで歩いているのだ。
「ありのままの私」なので欲望にも正直だ。あられもない格好にさせられた『ラ◯ライブ』のキャラクターの薄い本を堂々と買っていく。
 誰もそれを恥じていないし、それを責める空気など微塵もない。
 そこで思い出したのが、有名な川崎の「かなまら祭り」だ。
 それは子孫繁栄などを祈願して「巨大な男性器」を型どった神輿をかつぐことや、性器を型どった飴の販売で人気の祭りだ。
 その祭りもコミケ同様、多くの男性が「女装」で闊歩し、それぞれが自分の好きな格好で人のことなど気にせず「性」を楽しんでいた。

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