戦国時代、兵士たちの兵糧は干飯と呼ばれる、炊いた米を乾燥させて持ち歩き、湯で柔らかくして食べる非常食が主流だった。もちろん米だけにエネルギーにはなるのだが、空腹を癒すためだけのものであり味気ないものだったに違いない。

命がけの戦いのなかで、こうした質素なものを食する生活が、ときには数カ月も続くことがある厳しい時代。戦国武将のなかには、さまざまな工夫を凝らして、兵士の栄養と士気を維持した者たちもいた。その代表的な武将が、甲斐の武田信玄と薩摩の島津義弘だ。

 

武田信玄は、三方が原の合戦で徳川家康を蹴散らし、京都上洛に王手をかけたことでも知られる戦国武将だ。残念なことに、長年患っていた労咳(結核)が悪化したことで陣中にて没したため、天下統一の夢は散ってしまった。

信玄の統治していた甲斐の国は、山国だったためにコメの収穫は少なかった。そのため、兵糧である干飯を大量に所持することは難しかったのだろう。

信玄が干飯に代わって兵糧としたのが「ほうとう」だ。「ほうとう」はいわゆる乾麺で、鍋と水、そして味噌があれば煮込むだけだった。出向いた戦地で入手した野菜や肉をいっしょに煮込むことで、干飯よりもボリュームが出て栄養も補充できたのだ。さらに、味噌による保温効果もあって、厳しい冬の戦場では兵士たちの暖をとることにも役立ったはずだ。今でも甲府では、この「ほうとう」を郷土料理として振る舞っており、全国にも市の名を知らしめている。

 

また、西国の勇として知られる島津義弘は、天下分け目の関ケ原の合戦時、「あくまき」を兵糧としていたことで知られている。

「あくまき」とは今では薩摩の郷土料理となっている伝統的な菓子のこと。もち米を竹の皮で包み、灰汁で半日ほど炊き上げて作る。米に比べてもち米はカロリーが凝縮され、食べると胃のなかで膨らむため効率的だったのだろう。また、干飯と比べて湯で戻す必要がなかったため、手間もかからなかった。そのためか、西南戦争では西郷隆盛も、この「あくまき」を非常食として持参していたそうだ。鹿児島では子どもの日には「ちまき」ではなく、この「あくまき」を食べる。

鹿児島の銘菓「あくまき」

かつて野山を命がけで駆け抜けた戦国の武将たち。彼らは日頃の知恵を、こうしたところにも盛り込んで命がけの戦いを切り抜けていたのだ。