古代史上屈指のミステリー、蘇我入鹿殺害事件。宮廷を舞台にした政変劇の真犯人に迫る、4つの黒幕説の2つ目は「中臣鎌足こそが首謀者で黒幕だった」とする説。中大兄皇子の最も近くにいて、蘇我氏滅亡のシナリオを描いた中臣鎌足が、中大兄皇子を操った……通説とは一味違う解釈とは!?
 
【中臣鎌足】若かりし頃から秀才としての呼び声が高く、蘇我氏の政治に対して不満を抱いていたという中臣鎌足。軽皇子(後の孝徳天皇)などの有力な皇族たちと接触し、自らの策謀を実行に移す旗頭を探し求めていた。そんな中で鎌足が目をつけたのは、時の天皇である皇極天皇の実子・中大兄皇子。蘇我本宗家を滅ぼした後は、中大兄の右腕として政権の中枢で辣腕をふるった。彼の死後も、その子孫たちは日本政界の中心で繁栄を築いていく。

【中大兄皇子(天智天皇)】皇極天皇の子であり、乙巳の変では蘇我入鹿に一太刀浴びせた若き実行犯。通説では首謀者とも目されているが、近年では単なる実行犯にすぎないとの説も有力視されている。中臣鎌足と同じく大陸の政治や文化を学び、乙巳の変後に母・皇極から譲位された叔父・孝徳天皇の下では、実権を握って「大化の改新」を推し進めた。後に自らも天智天皇として皇位に就いたが、それまでは政権内での粛清に関わった事例が数多く見られる。

■黒幕・鎌足がみせた活躍ぶりとは?

 中大兄皇子を献身的にバックアップしたとされる中臣(藤原)鎌足だが、『日本書紀』の記述に加えて、奈良時代に成立した『藤氏家伝(鎌足伝)』を見ていくと、鎌足こそが真の黒幕であり、中大兄皇子は数ある手駒のひとつに過ぎないとも考えることができる。中臣鎌足とは何者なのかを知るには、大化の改新から1世紀、時計の針を戻す必要がある。

 500年代後半、畿内豪族のリーダーである「大臣(おおおみ)」の蘇我馬子(そがのうまこ)と、天皇家譜代の代表格「大連(おおむらじ)」である物部守屋(もののべのもりや)が主導権争いをしていた。政治的な戦いは、当時入ってきた新しい宗教「仏教」を導入するかどうかで表面化した。いわゆる崇仏論争(すうぶつろんそう)である。崇仏派の蘇我と廃仏(はいぶつ)派の物部の争いに、もう一つの大勢力だった中臣氏も参戦し、中臣は物部側についた。中臣氏は宮廷の祭祀(さいし)を司る氏族で、仏教とは相容れないからだ。587年、武力衝突の結果、物部氏と中臣氏のそれぞれの本宗家は滅んだ。

 蘇我氏は、物部氏の本宗家を息子に継がせることで、勢力に取り込んだ。本宗家が断絶した中臣氏は、この頃、常陸国(ひたちのくに)の鹿嶋(茨城県)の分家であった中臣鎌足の祖父が中央にやってきて、本宗家を継いだらしい。中臣氏の復興こそが、お家の重大事になったことだろう。

 そうしたなかで614年、鎌足が生まれた。

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