第22回 
映像で考える


映像で考える

 今回は、みんなの参考になるかどうか、役に立つかどうか、わからない。僕はこうです、という話である。何度か書いていることだが、僕は、考えるときに文章や言葉ではなく、図や映像で考えている。子供のときからずっとそうだった。
 大学に入ったときに、漫画研究会の先輩(農学部の人)と話をしていて、その人が「人間は言葉がなければ考えられない」と主張するのでとても驚いた。僕は少なくともそうではない、と彼に話したが、信じてもらえなかったかもしれない。
 その後も、言葉で考える人が大多数であることを、ときどき認識している。このタイプの人は、言葉以外で考えることがない、あるいは、できない、という。
 僕は、言葉で考えることもある。たとえば、小説のタイトルを考えたりするときなどはそうだ。しかし、その場合でも、頭に黒板があって、そこに文字を書いているシーンを思い浮かべている。つまり、文字という「絵」を見ている。
 記憶も同じで、たとえば、歴史の年号を覚えるときに「いいくに」なんて語呂合わせが役に立たない。頭の中で、「1192」という数字を映像で記憶する。文字も数字も特徴のない形状なので、なかなか覚えられない。だから、同じ「1192」でも、フォントをオリジナルにして、飾り文字にしたり、その数字の形の彫刻とか、その形の構造物を思い浮かべて覚えるしかない。
 学科では数学が得意だったけれど、数字そのものは苦手で、図形を扱う幾何学が好きだ。代数の問題も、必ず座標に展開して考える。
 そんな人間が、今は文字を書く作家になっているのだから、本当に不思議である。よく「メモをしない」ということを書いていて、周囲に驚かれるのだが、そもそも文字で考えていないので、メモをしてもしかたがない、できないのである。
 ストーリィなどは、最初は図形で考え、しだいにそれが動画になる。執筆のときは、映像を見ながら、その様子を文字に書き取る。
 ストーリィは、すべて映像で記憶しているから、どんな文章を書いたのかは覚えていない。でも、物語や登場人物の特徴、仕草、部屋の配置、そこにある品々や色、などはすべて覚えている。
 たとえば、キャラクタの「目」で見たシーンであれば、そのキャラクタの視力によって見え方が違う。近視の人ならば、同じシーンでもぼんやり見える。そういったそれぞれのカメラで映像を考えている。そうすることで、そのキャラクタ本人の「体験」を作り出すことができ、それがそのまま自分の体験となる。
 小説で書いたことか、それとも実際に体験したことか、が時間が経つとわからなくなる、といったことは、僕の場合は日常茶飯事だ。

 

道を思い浮かべる

 だから、「人生」を考えるときにも、僕は「道」を思い浮かべている。文字の「道」ではなく、映像の「道」だ。過去の時間についても、通り過ぎた道として振り返る。
 「思い出」というのは、シーンではないだろうか? 皆さんの思い出は、文字や文章だろうか? 多くの方が、自身が経験したものは、映像で思い出すのではないか、と想像するが、いかがだろう?
 これと同じように、未来の可能性も、僕は映像で見る。いろいろな場面をそれぞれ想像する。その対処も方法も予定も、すべて映像である。予想されるトラブル、障害、そして関門も同じ。また、他者との接点、協力なども、すべて映像、あるいは座標上の図形である。
 こうした頭だから、僕は子供のときに文字がなかなか読めなかった。文字を見れば、それをいちいち映像に変換しようとする。そこに時間がかかってしまう。すると、文章のどこを読んでいたのかわからなくなる。ただ、文字の形だけを認識している状態になって、変換が追いつかなくなってしまうのだ。
 近年になって、ようやく文章を読むことに少しだけ慣れてきた。それでも、書くのと読むのと、同じくらいの時間がかかる。文字を書くことは、映像が既に頭にあるので、変換が簡単だ。一方、文字から映像を作る方は、ずっと難しい。ここが、なかなか理解してもらえない。

 

夏も終わりかな

 まだ8月だけれど、もう落葉が増えてきた。これからの季節、とにかく落葉掃除が続く日々になる。
 庭園内には、建築物が3軒あるが、そのほかにも、おもちゃの建物が十数軒ある。単なるオブジェだ。モルタルや木材を使って、僕が作ったもので、古いものは築十年以上。ときどき、ペンキを塗り直して、メンテナンスをしている。

 

この風車は高さ2mくらい。庭園内のミニチュアでは3番めの大きさ。風で発電をするが、LEDが灯る程度。