古代史上屈指のミステリー、蘇我入鹿殺害事件。実行したのは中大兄皇子や中臣鎌足の一派だが、その背後には様々な背景や、黒幕の存在が見え隠れする――!? 中大兄皇子と中臣鎌足を操った影の人物を暴く!! 今回が最終回。
 

■東アジア諸国では内紛が頻発。独裁体制の波は日本にも波及したのか?

 これまで紹介した諸説は、いずれも乙巳の変を国内事情からみたものだが、グローバルな視点から読み解くと、東アジア世界の国際関係にクーデターの原因があったと解釈することもできる。

 古代の東アジアは、中国の隋と唐を中心に国際秩序が成り立っていた。周辺国は中国に政治上の服属の意を表す使者を派遣し、中国はそれを認めるという外交儀礼が長らく続いていた。

 中国統一の偉業を成し遂げた隋(ずい)の2代皇帝・煬帝(ようだい)だったが、過激なまでの独裁ぶりから家臣に暗殺され、隋はあっさりと滅亡してしまう。しかし隋から王朝を奪った唐(とう)の時代でも、周辺諸国との緊張関係は続いた。隋の外交政策を踏襲(とうしゅう)し、朝鮮半島などの隣国へ隙あらば出兵して領土拡大の野心を隠さなかったのだ。

 そして、乙巳の変が起きた645年、唐はついに隣国である高句麗(こうくり)へ出兵している。緊張関係がピークに達した朝鮮半島の諸国は、クーデターや粛清といった荒治療で国内の再編を急いでいた。

 例えば、高句麗では642年、大臣の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が高句麗王の栄留王(えいりゅうおう)を殺害して実権を握っている。同じ年、百済(くだら)では義慈王(ぎじおう)が親族などを含めた反対勢力を一掃し、権力を強化していた。また、新羅(しらぎ)でも647年に反乱が起きている。

 こうして東アジアの国際関係からみると、日本で乙巳の変が起きた645年というのは、唐の強大化にともない、軍事的な緊張関係が生じて、国内の再編が不可避となった時期だったことが浮かび上がってくる。要するに、朝鮮半島の諸国と同じように、乙巳の変も中国の強大化に対応した国内再編の動きだった、とみるのである。

 乙巳の変の決行日は、高句麗・百済・新羅などの朝鮮三国から進上物を天皇が受け取る儀式「三韓(さんかん)の調(ちょう)」が行われる日だった。こうした儀式が史実にあったかどうかは議論が分かれるところだが、乙巳の変に国際関係が関係した証拠のひとつとみることもできる。