● 江戸では湯屋が大繁盛

江戸では、町人が風呂を持つことはあまりなかった。豪商であっても、そうした事情は同じである。宿屋でさえ風呂がなかった。宿泊者は町の湯屋に出かけていたのである。そのため、江戸の町には湯屋の数がたいへん多かった。湯屋は、天正19年(1591)に伊勢与一(いせのよいち)という者が銭瓶橋(ぜにがめばし/現在の千代田区大手町付近)のほとりで、永楽銭1文の料金で入浴させたことにはじまる。その後、湯屋の数は江戸が巨大化するにつれて増加する。文化11年(1814)には、その数は600軒余にも達した。幕末の頃になると、江戸の中心部では1町あたり湯屋が2軒ずつもあったという。

増加の理由としては、江戸の気候事情も見逃せない。江戸は風が強くホコリをかぶりやすかったため、毎日風呂に入るのが習慣になっており、湯屋の需要は大きかったのである。町屋が自宅に風呂を造らなかった理由としては、火事に対する恐れ、燃料の薪の価格が高かったこと、水が不自由なことが挙げられる。その手間や費用を考えれば、自宅で風呂を造るよりも、湯屋に出かけた方が安上がりで好都合でもあるというわけだ。

入浴料は、他の物価に比べると格安だった。江戸中期頃は大人が6文(約90円)、子供が4文。当時の物価をみると、かけソバ1杯が16文であるから、その半額ほどに過ぎなかった。他の物価と比較しても、その格安さは際立っている。格安な料金であったからこそ毎日のように湯屋に通えたわけだが、それだけの頻度で利用されたからこそ、格安料金が可能だったとも言えるだろう。湯屋は江戸の人々にとり、欠かせない生活の一部になっていたのである。

●衝撃の「ざくろ口」とは?

湯屋の洗い場と浴槽は、「ざくろ口」で仕切られていた。「ざくろ口」は高さ90センチほどしかなく、かかんでくぐらなければなかなかった。浴槽の湯気を逃さないようにするために、仕切りを狭くする造りを取ったのである。その結果、浴槽の温度は50度近くにのぼった。「ざくろ口」という名称は形状からではなく、かかんで出入りしたことから生まれたという説がある。「かがみ入る」と「鏡鋳(かがみい)る」を掛けた江戸っ子の洒落というのだ。鏡鋳るとは鏡を磨くという意味だが、この時代はざくろの実を使って鏡を磨いた。よって「ざくろ口」と呼ばれるようになったのだという。

この頃、体を洗う前に浴槽につかり体を温めるのが普通だった。水を豊富に使えない事情もあり、浴槽の湯は汚く、体を温めるだけに使われた。浴槽から出るときは、別に上がり湯をもらった。上がり湯をくむ者は「ざくろ口」の脇に控え、湯くみ番と呼ばれていた。

中央に「ざくろ口」。その脇には上がり湯をくむ「湯くみ番」が見える。「職人尽絵詞」より
湯屋では奉公人の斡旋もおこなわれた。店先に口入れの看板があり、乳児を背負った女性に番台の女性が声をかけている。「絵本時世粧」より

安藤優一郎(歴史家)