リオ五輪閉幕式から早くも二週間ほど経ちますが、興奮はさめやりません。次期開催国・日本を紹介するパートでは安倍首相がマリオになって、渋谷からドラえもんが出した土管で一気に地球の裏側のリオに登場する演出が大うけでした。

 土管でどこへでも移動できれば、前都知事も湯河原で週末を過ごしても危機管理上何の問題も無かったのですが、この演出を舛添氏がやっていたらと思うと、あまりの皮肉にちょっと見てみたかったなどと思ってしまいましたね。

 というわけで、今回は危機対応について。今から420年前の文禄5年閏7月13日(現在の暦で1596年9月5日)、京・伏見・大坂を中心に大地震が発生。

「慶長伏見大地震」と呼ばれる史上有数の大震災は、史料によって発生時刻が「子の刻」「丑の刻」とばらついているが、厳密な計時方法が無い当時のことだから夜中の1時を中心に長時間激しい揺れが続いたと考えれば良いのではないだろうか。

 阪神・淡路大震災と同程度のマグニチュードで発生したこの激甚地震で、有馬温泉は泉脈が切られて干上がり、京・大坂・奈良の大寺社をはじめとする建物がことごとく損壊し、膨大な犠牲者が出た。豊臣秀吉の指月山伏見城もその例にもれず、大天守をはじめ建物が倒壊、重臣の横浜一庵以下城中の番衆の男女600人が下敷きになって死亡したという。

 加藤清正の軍記『清正記』には200年、300年の間に例を見ないような大災害だと記されているが、この震災で名をあげたのが清正本人だ。地震発生とともに200人の足軽に障害物を取り除けるためのテコを持たせて城に走り、大庭に避難していた秀吉のもとに駆けつけて「早くも来てくれたか! 気が利いた奴じゃ」とお褒めの言葉を頂戴した、と同書にある。

 実は清正はこれ以前、石田三成の讒言によって朝鮮の陣から召還され、謹慎させられていたのだが、これによって赦免され、秀吉の周囲を固めて逆に三成の登城を邪魔したという。これがのち関ヶ原合戦につながる両者の決定的な対立になったという話なのだが、これがどうも嘘くさい。

 というのは、清正自身が二日後に領地の熊本へ発した書状で
「京・大坂の(加藤家)屋敷は丈夫で壊れなかった。伏見の屋敷はまだ修築中だったのが幸いした。京から胡麻を取り寄せてそちらに転送するのは遅れることになる」
 と述べているところから、清正が当日伏見ではなく大坂に居たと考えられるからだ。

 大坂から伏見。現代と違い暗夜を余震警戒態勢のままタイマツに頼って移動するわけだから、いの一番に駆けつけたことによって「地震加藤」とあだ名されたとか、三成を妨害したとかは後世の創作だった可能性が高い。まぁ、二日後に「秀吉様は無事」とこの書状にしたためているから、翌朝ぐらいには到着し、秀吉の安全を確認したうえでとりあえずの復旧活動をおこない、その翌日にようやく国元に状況を発信したと計算でき、これでも十分迅速な対応と言えるだろう。

 清正にも、安倍首相のようなドラえもんの土管があったなら、『清正記』にあるようなエピソードもワープで実現できたのだが、それは無理な注文でしたというオチ。

 

※2015年6月の発掘調査で出土した指月山伏見城の埋没品