慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な司令官として指揮をとった石田三成。しかし小早川秀秋の裏切りなどもあり敗北。敗軍の将として斬首に処せられたが、豊臣家に忠義を尽くした末の悲劇だった――。

 

石田三成(いしだみつなり)は「出頭(しゅっとう)第一の仁(じん)也」と呼ばれた。当時、君主から信任されている側近を「出頭人」と呼んだ。三成は豊臣秀吉の側近のなかでも、一番の「出頭人」だったのである。三成の地位と権勢がよくわかる言葉である。

豊臣政権は天下を統一し、のちの江戸時代の近世社会の基礎となる諸政策を断行した。有名な太閤検地(たいこうけんち)をはじめ、刀狩令、喧嘩停止令、海賊禁止令、惣無事令(そうぶじれい)など諸身分・階層ごとの豊臣平和令、人掃(ひとばらい)令などの身分統制令などである。

三成は秀吉の奉行として、これらの政策の立案から実行まで深く関わった。とくに太閤検地は石高(こくだか)制を確立することによって、豊臣政権と大名の関係、武士と村・百姓の関係を規定したもので、身分統制令とともに兵農分離という社会体制を実現したのである。

豊臣政権の大名支配の特徴は「取次(とりつぎ)」制にあった。これは三成をはじめとする奉行たちが秀吉の代理人として、大名たちをその内政から指導するもので、三成の辣腕(らつわん)は際立っていた。そのなかで、薩摩島津家に対する指南は有名で、三成が奉行として太閤検地を実施した上で朝鮮出兵に耐えうる大名権力を確立させた。(続く)


文/桐野作人(きりの さくじん)
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。

石田三成(東京大学史料編纂所蔵模写)