岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!
 

目だたないけどマジ重要!将軍・義昭と信長対面の場

 

このエッセイは『信長公記』などを広げて現地踏査してるんですが、ときどき「何も立ってない史跡」ってものに結構出会います。

この亀甲山護国院立政寺(りゅうしょうじ)もそれ。

 

放浪中の足利義昭は越前朝倉に見切りをつけ、織田信長を頼ることにしました。
永禄11年(1568)7月25日、岐阜にはいった足利義昭が逗留したのがここ。
 
征夷大将軍になるかもしれない人をお迎えする場所だけあって、南北朝時代に創建された、由緒ただしい浄土宗のお寺です。
戦国時代はなにせ四百年も前なので、現地踏査しても何も残っていないことが多い。
で、当時を想像する方法はいくつかあります。
第一は地形。第二は地名。
 
立政寺そのものは住宅地の真ん中にあって、当時の面影はまったくありません。
ただ、立政寺のあるブロックだけ道が狭く、それ以外は道がほぼ直線。田圃だったんですね。
それから、立政寺を中心に直線に川が流れているので、これは運河か外濠のあと。
あと、場所は岐阜市西庄(にしのしょう)で、最寄り駅が「西岐阜」という、とってつけたような名前。

そこから推測すると、ここ立政寺は、まるで城塞のような外濠と広大な農地を持つ古刹だった、といえるわけです。

 

 

永禄11年7月に足利義昭の身柄を確保した織田信長は、ただちに上洛の準備をはじめます。
二ヶ月後の9月7日に信長は岐阜を出立し、9月14日にはもう、足利義昭のもとへ、「入洛の目処がたったのでご動座されたし」と知らせを送っています。
そして10月22日に足利義昭が将軍宣下をうけます。

そこから考えると、けっこう凄い場所なんですけどね。
この立政寺って。
ただ、地元ではほとんど知られていない。
ぼくもカーナビでやっとこさ探しました
(『信長公記』では「立正寺」になっています)。
 
一応、足利義昭の逗留した御座所の石碑もあるようですが、
ぼくは見落としました。
開山したナントカいうお坊さんの立像が派手でインパクトがあります。

 

「立政寺」は全国でどうもここだけのようなので、カーナビの入力は簡単。
ただ、直接行くには道が狭いのでご注意のほどを。

〈了〉