江戸の湯屋の入浴料は、他の物価に比べると格安だったが、懐に余裕のある者は有料の留桶のほか、「三助(さんすけ)」と呼ばれた湯屋の奉公人を雇ってぬか袋で体をこすらせていた。風呂炊きはもちろんのこと、湯屋の雑用の一切はこの「三助」の仕事だった。三助は男性だが、女湯でも女性の体をこすっている。江戸の湯屋の特徴として、外国人が一様に驚いた男女混浴の習慣があったが、こうした光景も奇異に映ったに違いない。

湯屋で働いていたのは男性だけではない。湯女(ゆな)と呼ばれた女性がいたが、その仕事は男性の体を洗うだけにとどまらない。春をひさいでいたのだ。その実態は遊女にほかならなかった。江戸の初期から、湯女をおいた湯屋はたいへん繁盛したという。湯女を20〜30人も置く湯屋まであったくらいだ。江戸はなんといっても、女性よりも男性が圧倒的に多い都市だったことが、その傾向に拍車をかけた。

だが、湯屋が湯女を雇って遊女商売をしていたことは、幕府により風紀上問題視される。その上、幕府が遊女商売を許していたのは吉原だけであり、湯屋での遊女商売は、吉原にとっては営業妨害以外の何物でもなかった。実際、湯女を抱える湯屋に客を取られた吉原は一時期衰退してしまう。そのため、幕府は3人以上の湯女を置くことを湯屋に対して禁じている。その後、湯女を置くこと自体が禁止となった。吉原からの申し入れにより、町奉行所が動いたのだろう。しかし、その需要の大きさから法令だけで歯止めを掛けることはできなかった。そのため、幕府は個々の湯屋に対して、営業停止を命じる厳しい処置を取る。明暦の大火直後に発した営業停止令では、湯女を抱える200軒もの湯屋が営業を停止させられた。
 
幕府は吉原からの要請もあって、湯女を抱える湯屋の取り締まりを強化したものの、湯女の活動を完全に封じ込めることはできなかった。旅籠屋(はたごや)が飯盛女(めしもりおんな)という名目で抱えた女性の実態が遊女だったように、湯屋が客の給仕をするという名目で女性を抱えることまでは取り締まれなかったからである。湯屋は生活にたいへん密着した存在であるがゆえに、その風紀取締は大きな課題だったが、幕府は実効ある対応がとれなかった。江戸の風俗として男女混浴が広くみられたことも、風紀取締を不十分なものにした要因だったのではないか。

そのため、混浴を禁じることで、そうした風習にメスが入れられる。折しも、寛政改革の最中であり、風紀取締の一環として、混浴が禁止されたのだ。だが、改革が挫折すると、湯屋は男女混浴に戻ってしまう。江戸の人々の習慣をなくすことは難しかったのである。

女の体を洗う「三助」が描かれる。「肌競花の勝婦湯」国立国会図書館所蔵

安藤優一郎(歴史家)