3度移転した屯所内部の実態や、隊服や隊旗のデザインに秘められた謎。

実力主義の給料と厳しい「鉄の掟」、そして増員に応じ改編、強化された組織。

新選組の隊務と日常生活の実態に迫る。

最も長く滞在した前川邸は切腹、拷問、稽古……嵐の日々だった

 

 壬生を本拠地とした新選組は、郷士屋敷の八木邸に幹部宿舎をおいて活動を開始した。しかし隊士が増えてくると、それほど大きくなかった八木邸では手狭となり、坊城通りを挟んで向かい側にあった前川邸を屯所として最も長く住んだ。

 この時、家主だった前川荘司は新選組の高圧的な態度に恐れをなし、一家で六角通りにあった本家に移ってしまった。

 前川邸は八木邸よりも広く、屋敷の総坪数は443坪で、部屋は12間あり、畳数は合計146畳もあった。土間の天井は高く、乗馬のまま4頭の馬が並んで裏庭に抜けられるほど広だった。ちなみに、八木邸も前川邸もほぼ当時のまま建物が残されている。

 前川邸を屯所とした当初、刺客に襲われた時の事を想定して、近藤も土方も奥の部屋で隊士たちと雑魚寝していた。ただ隊士が増えてくると、防御体制はしっかりしたものの、さすがに手狭となり、夜中に便所に向かう時に隊士の足を踏みつけることがよくあったという。

 この前川邸で、新選組から脱退しようとした山南敬助は、隊の禁令に背いた責任を取らされて切腹した。現在も山南の切腹した部屋が残っている。しかし、山南が島原の天神(遊女の階級の1つで、最高位「太夫」の次に当たる)であった明里と涙の別れをしたという出格子窓は現存していない。

 なお、他にも長屋門や、野口健司が切腹した部屋、古高俊太郎を拷問した蔵などが今なお残っている。

 新選組隊士の屯所生活は規則正しいものだった。平隊士は起床すると布団をたたみ、部屋の掃除を行った。その後、朝稽古をしてから朝食をとり、勤務につく者はそれぞれの部署についた。また道場稽古や砲術訓練、時には夜間稽古も行ったという。

 非番の者は道場稽古に汗を流す者もいたが、お互いの月代(額から頭頂部にかけて半月形に剃り落とした部分)を剃り合ったり、将棋や囲碁を楽しんだり、普段着のまま仲間と社寺や観光地を巡ったりと、自由な時間を過ごせたらしい。沖田総司も近所の子供や子守を集めて鬼ごっこをしたり、壬生寺の境内を走り回ったりして遊んでいた。