織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

城郭をイメージする時、多くの人々はまず城の中心部にそびえる「天守」(注)を想像するに違いない。「天守閣」という名称で呼び習わしている方もいるかもしれないが、これは明治時代以降の呼称で、正しくは「天守」である。かつて300を超える数があったといわれる天守であるが、現存する天守は全国で

わずか12城である。 

その起源が安土城「天主」にある。当時、最も高い建物は東大寺大極殿や興福寺の五重塔であった。しかし、前者は大仏の覆屋(おおいや)であり、後者は外から鑑賞するもので中には入れなかった。居住できる2階建て以上の建物としては、金閣寺と銀閣寺が唯一といえるほどであった。 

信長は、日本で初めて、人が住むことの出来る5層7階地下1階の木造高層建築を建てた。そしてそれを「天主」と名づけた。それが豊臣秀吉の時代に「天守」と名を変え、形や用途を変えながら幕末まで引き継がれたのである。(続く)

 

(注)天守(天主)/城の本丸に築かれた最も高い物見櫓(ものみやぐら)のこと。城主の権威の象徴としての政治的な性格が強い。安土城の天守については不明な点も多く、複数の想像図が存在する。

 

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。