6月初旬のミッドウェーの大敗から2か月、いよいよアメリカ軍の大規模反撃としてガダルカナルの戦いが幕を開けた。それまで全く知られていなかった島の戦闘は翌年の2月まで続くが、ここでも日本軍は敗退することになる。

 水上艦同士の戦闘、空母機動部隊の戦いでは互角以上であったが、航空戦、補給戦、島内における地上戦での損害は段違いに日本側に多かった。そのため年が代わった18年2月の最初の1週間、日本海軍はケ号作戦を発動、ガ島から2万人近くの兵員を撤退させる。これはあくまで撤退作戦であったが、ほぼ成功を見た。しかしこの海域の敗北は続く。

 1か月後、陸軍は輸送船8隻に兵員4000名を乗せ、ニューギニアへ送り込む。これには駆逐艦8隻、戦闘機60機の護衛が付いたが、結果は悲惨そのものであった。アメリカ、オーストラリア軍の航空攻撃によって輸送船のすべて、駆逐艦の半数が沈み、兵員の犠牲も3000名を超えてしまったのである。

 ガ島をめぐる戦闘の敗北、そこからの撤退、さらに陸軍輸送の失敗から、ソロモン周辺の日本軍の士気が急激に低下したのは無理からぬところだろう。

 このままではアメリカ軍の圧力に、この地域の日本軍全体が少しずつ押しつぶされる可能性さえ考えられた。

 このような戦局を一気に回復すべく、山本と海軍首脳は大航空戦力を投入し、この方面の敵の撃滅を計画する。これが「い号作戦」で、実質的に山本が裁可した最後の作戦となってしまった。本作戦についての記録はわずかなため、立案者は不明だが、当時の海軍内で異論が挟まれなかったことからも、最高司令官である山本の発案だと考えられる。

 い号作戦は、機動部隊の艦載機に陸上基地の航空機が協力して、ソロモンの敵軍に大打撃を与える航空作戦で、3月に計画された。

「い」号作戦を指揮するため、ラバウル基地に赴いた山本五十六。