出雲大社で有名な「出雲」の地は、数多くの神話や伝承の舞台として有名ですが、実は、それらの神話のうちいくつかが歴史的な事実であった可能性が出てきているのです。詳しいお話を『「ハイテク」な歴史建築』の著者・志村史夫先生にお聞きしました。


「神話の国」で相次ぐ考古学的な発見

 出雲はしばしば「神話の国」と形容されます。
 その典拠は、日本の「建国」の歴史を記した『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』です。
 一般に「神話」と「歴史的事実」とは別個に扱われますし、「神話」をそのまま「歴史的事実」と考える人は多くはないはずです。
 しかし近年、出雲地方で、それまでの常識を覆す考古学的大発見が続き、「神話」が「史実」と考えられ始めているのです。

 

 まず、1984年から85年にかけて、荒神谷(こうじんだに)遺跡から弥生時代の358本という大量の銅剣や16本の銅矛などが出土したことです。もちろん、これだけ大量の銅剣、銅矛が一箇所から発見されたのは前代未聞のことです。それまでに、全国で見つかっていた弥生時代の銅剣の総数が約300本であることを考えますと、荒神谷遺跡で発見された銅剣の数にあらためて驚かされます。
 さらに、1996年にも、荒神谷遺跡から遠くない加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から39個の銅鐸が発見されて注目を集めました。この加茂岩倉遺跡での発掘以前に日本全国で発掘されている銅鐸の総数が460個であることを考えますと、39個というのは異常な多さです。

 私は、多量の銅鐸発見直後、加茂町(現雲南市)教育委員会の協力を得て、発掘現場を見学させていただきました。
 そこは、谷奥の丘陵斜面中腹の山道工事現場でした。パワーショベルの生々しい爪あとの脇に45センチメートルほどの銅鐸が顔を出していました。私は博物館などで銅鐸の実物を何度も見たことがありますが、土中に埋まった状態の銅鐸、しかも展示用ではなく発掘の姿そのままの銅鐸を見るのは初めてでしたので、身体が震えるほど感激したことをいまでもはっきりと憶えています。

 次に、これは一般にはあまり知られておらず、私も取材で日御碕(ひのみさき)と日御碕神社を訪れた2016年5月に偶然お会いした現地のダイビングガイド・岡本哲夫さんに話を聞いて初めて知ったのですが、日御碕沖の海底神殿の発見です。
 1999年、周辺の海を調査していた岡本さんは、明らかに人工的な階段を発見しました。その後、祭壇、参道、玉砂利を敷き詰めた洞窟、大小の岩がウミガメの形に並ぶ「亀石」などが水深30メートルまで点在するのを発見しています。

 日御碕神社の創建は紀元前539年といわれ、「日の本の昼を守る」伊勢神宮に対し、「日の本の夜を守れ」との勅命を受けた神社です。下の本社は「日沈宮(ひしずみのみや)」で天照大御神(あまてらすおおみかみ)、上の本社は「神の宮」で素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祭神とし、出雲大社の「祖神さま」として崇敬を集める由緒ある神社です。
 この地には古くから、「日御碕神社の西の経島のタイワは海面上に浮かび、その場所で〝夕日の祭り〟が行われていたが、その後、海底に没した」という伝承がありますので、岡本さんが発見した海底遺跡は紀元前に存在した神殿ではないかと考えられます。
 もう一つ、2000年から2001年にかけて、出雲大社境内で巨大な柱が三箇所で発見されたことです。
 一本の直径が約1.35メートルの杉材を三本束にしたもので、総径が約3メートルもありました。太さと年輪を見ますと、樹齢は2000年を超えるのではないでしょうか。放射性炭素同位体法による分析の結果、部材の伐採は1228プラスマイナス13年と判明し、文献上の造営記録などを総合し、鎌倉時代の1248年に造営された本殿に使われたものと考えられています。

 このように、近年、「神話」が「史実」と認められるような画期的な考古学的発見が「神話の国」出雲で続いているのです。出雲はもはや「神話の国」だけではなく「古代史の国」といってもよいのではないかと思います。
 いま近年の出雲における画期的考古学的発見のいくつかを述べたのですが、じつは、出雲地方では以前より弥生式文化の特徴を示す、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と呼ばれるヒトデの形をした独特の大型墳墓がいくつか発掘されていますし、銅剣、銅矛、銅鐸なども弥生式文化の時代のものなのです。
 従来、弥生時代の「二大青銅器文化圏」として知られていたのは和辻哲郎が提唱した「近畿の銅鐸文化圏」と「北九州の銅剣・銅矛文化圏」ですが、近年の出雲古代史における数々の発見を考えますと、「二大青銅器文化圏」の再考が求められるでしょう。
 いずれにしても、出雲が弥生時代に栄えた大文化圏であることは疑いのない事実です。

『「ハイテク」な歴史建築』をもとに構成)