江戸の人々が毎日のように通った湯屋の2階は男性客の休憩所となっていた。休憩所の使用料は8文(約120円)だったが、菓子もひとつ8文で売られていた。おそらくお茶つきだろう。入浴料は6文(約90円)と安く設定されていたが、2階で散財させることで湯屋は経営の安定化を目指したのである。

湯屋にとって2階の客は上客ということになるが、利用したのは裕福な町人だけではない。武士の姿もみられた。下級武士など自宅に風呂がない者は武士でも湯屋に通っていた。湯屋の2階は町人たちの社交場となっており、市井の情報を知るのに格好の場所だった。そのため、なかには入浴せずにそのまま2階に上がってしまう者もいた。

実際、町人たちは囲碁や将棋を楽しみながら、あるいは備え付けの絵草紙などを読みながら、湯上がりのひとときを談笑しながら過ごしている。社交場であるがゆえに、脱衣場と同じく、壁には商品の広告や芝居の番付なども貼られていた。さらに、驚くべきことに、休憩所には、1階の女湯をのぞける窓も取り付けられていた。江戸は男性の数が圧倒的に多く、吉原をはじめとする遊女商売の需要が大きかったが、そうした都市の性格が、湯屋にもこうしたのぞき窓を取り付けさせたのだろう。

● そもそも江戸の湯屋ってどんな建物?

江戸の町の建物は平屋が大半だったが、2階建てのひと際目立つ大型の建物も町内には点在していた。そのひとつが湯屋である。湯屋の営業時間は、寛文2年(1662)に日の出から日の入りまでと定められた。だが、実際のところは日没後に火は落としたものの、湯が冷めない間は営業を続けていた。午後8時ぐらいまでは客が来ていたようだ。湯屋の入り口には、弓の弦に矢をつがえる形をした看板が掛けられていた。「弓射る(ゆみいる)」に「湯入る(ゆいる)」を掛けた江戸っ子の洒落だった。

入り口を過ぎると、行く先は2つに分かれる。男湯と女湯だ。脱衣所で衣類の盗難が起きないよう見張るために設けられた番台は、女湯側に置かれた。番台は料金所の役割も果たしており、客のリクエストに応じて体をするぬか袋や体をぬぐう手ぬぐいを貸すこともあった。男湯の方は、男湯と女湯を仕切る羽目板越しに番台の上から監視したのだろう。別に見張りの者を置く場合もあったようだ。脱衣所には、脱いだ衣類を入れる棚がその壁側に置かれた。脱衣所を過ぎると洗い場だが、その間には仕切りがなかった。その一方、洗い場と浴槽の間には仕切りがあった。これを「ざくろ口(くち)」という。

脱衣所で服を脱いだ後は洗い場をそのまま通過し、ざくろ口をくぐって浴槽に入ったが、寛政3年(1791)に禁じられるまで男女混浴の状態だった。寛政3年以降は、男女別々の浴槽が設けられるようになる。浴槽で体を温めた後は、ざくろ口の脇に控える湯くみ番から上がり湯をもらう。洗い場で体を流したあと、脱衣所に戻った。衣類を着た後、女性はそのまま湯屋を出た。男湯の脱衣所には2階にあがる梯子がつけられ、男性専用の休憩所でくつろいだ。時間帯によって客層は異なっていた。朝は、仕事に出かける前の者や隠居身分の者。午後は手習いから戻った子供や仕事が終わった者たちがやってきた。一日中、湯屋には人の出入りが絶えなかったのである。

男性専用の休憩所の様子。左下の男はかかんで女湯をのぞいている。「賢愚湊銭湯新話」国立国会図書館所蔵
正月の番台。正月には通常の入浴料とは別に祝儀をおひねりとして番台横の台に置くのが通例だった。「睦月わか湯之図」国立国会図書館所蔵

安藤優一郎(歴史家)