戦国時代、城は全国に数万も存在していた。そのほとんどが姿を消し、遺構も野山に埋もれている。あなたの近所の小山にも、名も知らない城があったのかも……。


堅固な石垣の上、天高くそびえる建造物。その屋根の上には、黄金のシャチホコ……。きっと、日本人の多くにとって「城」とは、名古屋城や大阪城のような、立派な天守をイメージするだろう。しかし、そうした天守をもつ城は、歴史的には少数派である。
ここでいう「城」とは、石垣や堀で囲われた領土(縄張)全体をさす。城の中心となる大きな建物のことを、天守(「天守閣」は俗称)と呼ぶ。
今日、全国で見られる城の多くは、築城ブームに沸いた安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、築城・大改修されたものである。
では、それ以前の戦国時代、「城」はどんな姿をしていたのか。

城の起源は、領土を柵や土壕で囲った程度の簡易な砦である。中世までの城は、戦いのときに逃げ込む避難施設であり、その多くは山の上に築かれた。こうした山城は、段々畑のような曲輪(くるわ)を連ねただけで、石垣も低く防御性にとぼしいものが多かった。
たとえば、現在の三重県鳥羽市に残る、九鬼嘉隆(よしたか)が築城した「鳥羽城」。四方を海に囲われた、小高い山の頂上に築かれていた。

城主を替えながらも残り続けた鳥羽城だが、明治4年(1871)、廃藩置県により建築物が撤去された。現在の城址公園は、海を望む憩いの場となっている。

 

 

 

 

 

要塞であるべき城に、高層建築の要素を加えたのが織田信長である。信長は天正4年(1576)、山城の安土城に本邦初の天守を造営した。これが、現代人のイメージする近世城郭の原型である。
もうひとつ、信長の行った歴史的なエポックが、攻め落とした城をことごとく廃棄して、新たに築城するというシステムをとったことである。それ以前の戦国武将たちは、落城すればそのまま占拠していた。
こうして、信長と豊臣秀吉による天下統一の過程で、戦国武将たちの城は、駆逐されていったのである。美術史において安土桃山時代とも呼ばれる、この両雄の時代は城郭建築史では織豊時代とされる。

信長・秀吉に次いで天下人となった徳川家康は、諸国の大名を動員した「天下普請」で江戸城・彦根城などの巨大な城郭を造りあげた。
この時代、建築技術が飛躍的に進歩を遂げ、いわゆる「慶長の築城ブーム」が起こる。
しかし、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると幕府は一転して、「一国一城令」と「武家諸法度」によって築城を禁止。全国のほとんどの城が廃棄処分されてしまった。元和元年(1615)、日本独自の高層建築文化は、短い黄金時代を終えたのだった。

その後、明治期の「廃城令」や太平洋戦争によって、残念ながら、日本の城のほとんどが往時の姿を保っていない。数少ない例外が、松本城・犬山城・彦根城・姫路城の国宝4城を含む「現存天守12城」だけである。
昭和の高度成長期には、戦争で失われた城の復元が行われたが、そのほとんどが、鉄筋コンクリートの外観復元ばかりだった。当時の建築基準で、木造の高層建築が造れなかったためである。

しかし平成に入ってから、再び城復元ブームが起こりつつある。
平成3年、白川小峰城の三重御櫓(天守の別名)復元を皮切りに、平成16年には大洲城の天守が、木造によって建て直されている。
「平成の城復元」は、より史実に近い形をとり戻す試みである。姫路城をはじめとする名城の再現が、今も全国各地で行われている。