山本長官はこれをどの程度信じていたのだろうか。たしかに戦爆連合220機の攻撃だから、相当の戦果は挙げ得たと思っていたはずである。また敵機の撃墜は28機となっていて、ガ島のヘンダーソン飛行場の航空機は、重大な損害を被ったと考えてもなんら不思議ではない。飛行場自体もかなりの被害を受けているはずである。そうであればしばらくの間、アメリカ側の反撃は不可能に近い。

 現代の我々は、多くの資料により両軍の戦果と損害を正確に知ることができるが、当時、それも戦いが続く前線にあって現実には難しかった。なにしろこの日のアメリカ軍航空機の損失は、7機にすぎなかったのだから。

 この状況を知らないまま山本は、い号作戦終了後の4月18日、ラバウルよりかなり危険の多いバラレ基地訪問を決めている。この基地はガ島とラバウルの中間にあるから、敵機の来襲も頻繁であった。そして暗殺に近い形で戦死する。

 山本は日頃から「最高指揮官、上級司令部が最前線に出ていくのは、決して良いことではない」と発言していた。そしてその危惧は完全に的中し、連合艦隊の司令長官の戦死という悲劇に結びつくのであった。

 この事態は日本軍の弱点をすべてさらけ出しているように思える。必要のない前線視察、解読されていた暗号、上層部の見通しの甘さ、少ない護衛戦闘機など信じられないような失策の連鎖であった。

 しかし深く考えてみれば山本はミッドウェー、ガダルカナルの敗北のあと、戦争の行く末に強い不安を抱き、自身の運命に執着しなくなっていたようにも思える。実際、この頃から日本の勝利の芽は、完全に失われていたのであった。

山本五十六が搭乗していた一式陸攻の残骸