織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

信長への経済的援助を期待した正親町(おおぎまち)天皇。それに対し信長は、安土城という舞台を考えていた。

その後、天皇の薦めに従い従二位、右大臣、正二位と叙任を進めるが、天正6年(1578)に右大臣と近衛(このえ)大将を辞す。そして、天正7年に城が完成。天正9年、天皇は左大臣に任じようとするが、信長は誠仁親王の譲位後に安土城で拝命する旨を伝え、これを拒否した。 

天正10年1月、家臣達を招いたお披露目で初めて安土城内部の様子が明らかとなった。そこには天皇行幸(ぎょうこう)を前提とした「御幸の間」「皇居の間」という座敷が設えてあった。行幸御殿である。

本丸跡の発掘調査では、多くの礎石跡が発見された。藤村泉氏の復元では、これが後に秀吉の建てた慶長期の清涼殿とそっくりだという。慶長期の清涼殿は、信長が建てた天正期の清涼殿を模したもの。つまり、信長が御所に建てたのと同じものが、安土城内にもあったという証だという。(続く)

 

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。