聖徳太子といえば歴史上最も有名な人物の一人である。しかし、その存在や数々の偉業には疑問が投げかけられている。はたして聖徳太子とはどのような人物だったのか? 天皇にならなかったのはなぜか? 数々の疑問とその真相とは?
 

■馬屋で生まれ四天王寺を建立する

 聖徳太子こと厩戸王子(うまやどのみこ)の生涯については、『日本書紀』に記述されたものがもっとも信憑性が高いが、『日本書紀』成立後に、太子の伝記として、『上宮聖徳太子伝補闕記(じょうぐうしょうとくたいしでんほけつき)』(平安初期成立)、『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』(917年成立)、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』(平安中期成立)などが挙げられる。鎌倉時代以降に描かれる聖徳太子絵伝はこれらの平安時代に成立した伝記史料をもとに寺社の縁起(えんぎ)(由来)と関連させて描かれたものがほとんどである。

 まず、太子が馬小屋で誕生したとする説話については、『日本書紀』には次のように記されている。

 ある日、母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)が宮中を見て回っていた。ちょうど馬官(馬役所)に来た時に、なにかの拍子で馬屋の戸が身体に当たって、それが刺激となって苦しむこともなく、太子が生まれた。太子は生まれながらにして話すことができたので、まさに聖人のように賢い子であった、とある。

『上宮聖徳法王帝説』では、馬屋を出たときに産気づいて、あっという間に生まれたとされている。いずれにしても馬小屋と深い関わりがあると考えられていたことは間違いない。これは馬小屋で生まれたイエスがキリスト教を広めたイメージから、日本では仏教を広めた聖徳太子も馬小屋で生まれたという連想で創作された伝承かもしれない。そしてイエスの場合は、母親のマリアが処女懐胎(かいたい)という奇跡を起こしたのに対して、聖徳太子の場合は、自分自身が赤ん坊なのに話すことができたという奇跡を示したことになっている。

 太子の生まれた年については諸説あるが、今のところ敏達(びだつ)3年(574)説が有力だ。この敏達大王は、仏教反対派だったといわれる大王である。もし太子一家が仏教を信奉する家だったとすると、むしろ大伯父・蘇我馬子(そがのうまこ)の家で仏教に接したのかもしれない。敏達13年には、蘇我馬子が石川の邸宅に仏殿を造り、「仏法の初めはここから起こった」と記され、翌14年には廃仏派の物部(もののべ)氏と中臣(なかとみ)氏による仏教弾圧事件が起こっている。

 用明(ようめい)2年(587)4月に大王が崩御すると、馬子による穴穂部(あなほべ)・宅部(やかべ)の二王子の殺害があり、穴穂部王子を支援していた物部守屋(もののべもりや)と蘇我馬子の全面戦争が起こる。太子をはじめとする諸王子は馬子側に属していた。ところが軍事氏族である物部氏は戦略に長けており、戦況は蘇我側に不利になる。14歳の太子は、四天王の像を作って戦勝祈願をする。この戦いに勝てたならば四天王のために寺を建立すると。そして迹見赤檮(あとみのいちひ)の矢が守屋に当たって、物部軍は総崩れとなり、蘇我側は大勝利を収めることになる。『日本書紀』に書かれている記事だが、四天王寺の創建縁起でもある。

 実は、蘇我馬子も諸天王(しょてんのう)・大神王(だいじんのう)に祈願をしており、勝利の暁には寺塔を建て、三法を広めることを誓っている。あるいは実際には馬子の演出的祈願の方が事実に近いものだったかもしれない。

 

《聖徳太子の謎を徹底解剖! 第2回へつづく》