聖徳太子といえば歴史上最も有名な人物の一人である。しかし、その存在や数々の偉業には疑問が投げかけられている。はたして聖徳太子とはどのような人物だったのか? 天皇にならなかったのはなぜか? 数々の疑問とその真相とは?

 

 

■法隆寺を建設し、
  仏教に深く帰依(きえ)する 


 崇峻(すしゅん)朝もわずか5年で終焉し、史上初の女帝による推古(すいこ)朝が始まった。太子20歳の時のことである。この時、太子は皇太子兼摂政(せっしょう)になったとされるが、おそらくは事実ではないだろう。

 推古3年(595)、太子22歳の時に高句麗(こうくり)から僧・慧慈(えじ)が来日する。この慧慈が太子の仏教の師となる。高句麗が朝鮮三国の中でもっとも仏教が盛んだったからである。儒教は博士覚哿(かくか)を師として学んでいる。2人は古代朝鮮人だから、話す言葉は古代朝鮮語であった。あるいは国際語であった中国語も話せたかもしれない。経典は中国語で書かれており、師の言語は朝鮮語だ。いずれにしても太子は、2人から教えを受けるために、事前に朝鮮語と中国語を学んでいたはずだ。慧慈の帰国は推古23年であるから、20年間にわたって仏教の指導を受けたことになる。

 推古8年には遣隋使が派遣されている。そして翌9年に太子は斑鳩(いかるが)に宮を造っている。斑鳩への移転は、ある意味、飛鳥での政治からの離脱を意味していた。斑鳩寺(現法隆寺)も同13年頃に創建されている。

 ただし、同14年7月には、太子は推古女帝に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義し、同年、法華経(ほけきょう)も講義して、播磨(はりま)国の水田を斑鳩寺に施入(せにゅう)されている。朝廷との関係が切れてしまったわけではなかったのだ。

 そして推古15年には小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として派遣される。隋(ずい)の中国統一と朝鮮三国の臣従という東アジア外交への対応と、隋の政治・文化の吸収という目的があったと考えられる。こうした政策には叔母・推古、義父・馬子とともに太子も参画していたことだろう。

 推古21年には、片岡山伝説の記事がある。太子が葛下郡(かつらぎのしものこおり)片岡に出かけた時に飢人に出逢い、食べ物と衣服を与えた。その飢人が聖人であったことが後にわかる。そこで人々は、「聖の聖を知ること、それ実なるかな」と恐懼(きょうく)したという伝承だ。これも、神や仏が姿を変えて聖人を試しに来るという説話の一つのパターンと考えられる。

 太子の死去は推古30年のことで、50歳の寿命であった。これは法起寺塔婆露盤銘(ほっきじとうばろばんめい)の年月を根拠にしている。また、『上宮聖徳法王帝説(じょうくうしょうとくほうおうていせつ)』によると、同年2月21日に妻の膳大刀自(かしわでのおおとじ)(菩岐々美郎女)が没し、その翌日に太子が崩じたとある。『日本書紀』にはない記事なので、信憑性についてはなんともいえない。

 

《聖徳太子の謎を徹底解剖! 第3回へつづく》