織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

当時の記録に全く記されておらず、いつ頃からそう呼ばれるようになったのかはよくわかっていないが、安土城の南正面に造られた道が「大手道(おおてみち、注)」である。

発掘調査される以前の道は幅3m程で、山頂に向かってくねくねと続いている山道で、典型的な山城の道は、当時はこのようなものだと考えられていた。

しかし、発掘調査で地中から発見された道は幅6mを計り、門から突き当たりまでが直線で130mもある威風堂々としたものであった。道の両側には石組みの水路が走り、その外に金箔瓦がのった高い塀と石塁が連なり、その内には屋敷群があった。そして道の正面には天主が見えた。 

江戸期の古図では、道の両側に家臣団の名が見える。発掘調査でも、道の両側に大身クラスともいえる武家屋敷の跡がいくつも発見された。残念ながら、持ち主の名はいずれも特定できていない。(続く)

 

(注)大手道/大手門(正門)から本丸をつなぐ道のこと。

 

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。