開戦時の軍令部作戦部長・福留繁は典型的な大艦巨砲主義者であり、作戦の神様とまでいわれていた。作戦部長になったのはある意味当然だった。だからこそ山本のハワイ攻撃案には猛反対した。なにしろ、正規空母6隻に飛行機を積んでハワイのはるか沖合から出撃させ、停泊中(であるはず)の米戦艦を撃滅するという作戦である。福留には破天荒としか言いようがなく、博打のような作戦に見えたのだ。

 山本と福留の因縁めいたエピソードとして1940年3月の演習のことがよく引き合いに出される。山本長官と福留参謀長は「長門」艦橋にいたが、次々に襲いかかる陸攻や艦攻が放つ魚雷を避けきれずに何発も直撃された。

 思わず山本が「これじゃあ、浮いておれんなあ。飛行機でハワイをたたけないものか」とつぶやいた。傍らの福留が諫めるように、「航空攻撃をやれるぐらいなら、全艦隊がハワイ近海に押し出しての全力決戦がよいでしょう」と応じた。

 1941年1月、最初にハワイ攻撃の検討を依頼された大西瀧治郎は、最初はその斬新な発想に魅了されたが、時が経つにつれて反対するようになった。

 片道6000キロ航行中の機密保持が困難、燃料の補給が困難、真珠湾は海が浅く魚雷が海底に突き刺さるのではないか、うまい具合に米艦隊が停泊しているのか予測困難、もしも空母をやられたら後の闘いに不利等々、確かに難問だらけだった。福留に限らず、やはり大きな博打に似た作戦に思えたのだ。

1941年12月8日、日本海軍機の猛攻を受ける真珠湾