織田信長肖像画(写真提供/アフロ)
 
 
 
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

安土城の大手道が最終的には本丸の南面の虎口(こぐち)にたどり着くこと、本丸に正親町(おおぎまち)天皇の行幸(ぎょうこう)御殿が設えられていることなどを考え合わせ、天皇が行幸した折に進む道筋として用意された幻の道とも考えられ、これらの屋敷跡は家臣団屋敷ではなく、迎賓館のような役割を果たしたとも考えられる。

いずれにしても、謎が多き大手道である。 城下町は当時、山下町(さんげちょう)と呼ばれていた。もともと安土山の東麓には、中世以来、薬師寺の庄園で豊浦湊(といらみなと)があった豊浦の庄と、佐々木六角氏の所領で佐々木神社や浄厳院(じょうごんいん)、常楽湊のあった佐々木庄というふたつの集落があった。

それらは堀割を巡らせた環濠集落であったが、信長はその地を城下と定め、再整備を行った。工事ではまず堀を埋め、新しい道を敷き、縦横に町割を定めた。(続く)

 

●安土城データ

城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。