<第52回>

10月×日

【「ファーストキス」】

 

生きているうちに、一度は人から言われてみたいセリフというものが、いくつかある。

「伝説の剣を抜けるのは、そなたしかいない…」

老人がそう僕に囁く。その後ろには期待感を露わにした表情の村人たち。男なら一度は憧れるセリフである。

「へへ!お前ってけっこういいパンチ持ってるじゃん!」

先ほどまで拳を交えた相手が、握手を差し出してくる。ふたりの傷だらけの顔を、夕方の爽やかな風が心地よく撫でる。夕陽に染まった土手で言われてみたいセリフである。

「僕、いつか先輩のようなサラリーマンになります!」

会社に歯向かい、辞表を叩きつける。「退職金は、すべて給湯室のインスタントコーヒー代にでもまわしてくれ」、そんな捨てゼリフを吐き、会社をあとにする。すると後輩が追いかけてきて、僕の背中に向かって最大限の尊敬の念を込めた上記のセリフを投げかけてくる。なにも言わず、背を向けたまま二本指を「チャッ」と頭上に掲げてそれを受け流したい。

どうだろうか。

「ああ、この人って、中華料理屋に置いてある漫画雑誌ばっかり読んでるんだろうなあ」と思われたかもしれない。

たしかにどれも、男特有の稚拙な憧憬に基づかれたセリフばかりだ。

しかし、ご理解いただきたい。男には、必ず心の中に、ひとつかふたつは「人生の中で言われてみたいセリフ」を宿しているものなのである。で、その憧れのセリフのほとんどが、マンガ由来だったりするのである。

では、僕にとって、最も「言われたいセリフ」とはなにか。

それは、これである。

「これ、あたしのファーストキスだからね!ありがたく思え!」

勝気な女幼馴染に、ふいに唇を奪われたあと、強がりと照れ臭さとが入り混じったトーンで言われる。突然のことに、茫然と立ち尽くす僕。辺りには蝉時雨だけが響く…。

夢だ。夢のようなセリフである。

このセリフ、いったい元はなんなのだろうと気になり「これ、あたしのファーストキスだからね!ありがたく思え!」でグーグル検索してみたところ、とあるマンガのヒロインのセリフだということが分かった。主人公の双子が野球したり死んだりやっぱり野球したりする、あのマンガである。

やはり、マンガ由来のセリフであったのだ。

ああ、思い出した。

物心がつくかつかないかの幼年時代。夕方の再放送アニメから聞こえてきた、檸檬の飴玉のようなセリフ。以来「いつかこんなセリフを女性に言われてみたい」と夢見るようになったのであった。

しかし、当たり前だが、大人になった今でも実際にそんなセリフを言われた経験など、一度もない。

そもそも、キスとは関係の薄い半生を送ってきた。

四捨五入で換算したら「キスなどしたことない」と言い切っていいほどに、キス含有量の少ない半生であった。

深刻なキス不足にあえいでいる、そんな半生だった。

だから、

「これ、あたしのファーストキスだからね!ありがたく思え!」

などという甘酸っぱいセリフを受けたことなど、一度もない。そしておそらくだが、これからもないだろう。

先日、とある訃報を耳にした。

遠い親類にあたるおじさんが亡くなったのだ。

耳から毛がこれみよがしに生えているおじさんだった。

家庭科の授業で不良が投げやりな気持ちで作ったナップザックをむりやり擬人化したような顔のおじさんだった。

いつも、酒の匂いがするおじさんだった。

幼い頃、法事の集まりなどでこのおじさんとは時折だが顔を合わせることがあった。

このおじさん、ただでさえいつも酔っているのに、さらに酒を浴びることで「キス魔」に変貌するという、かなりダメな感じに仕上がっているおじさんだった。

この時点でだいぶ話が読めたと思うが、そう、僕のファーストキスの相手は、このおじさんだった。

法事の集まりでしたたかにビール瓶を何本も空にしたかと思うと、赤ら顔で親戚中の頬や唇にキスをしてまわる。

おじさんにとって、それは友好のしるし以外のなにものでもないことは、その柔和な雰囲気から見て取れた。

でも、キスされる側からしたら、迷惑以外のなにものでもない。

なんせ、耳から毛が生えていて、鼻から酒の息を巻き、軽く血がつながっている男が唇を近づけてくるのである。

悪夢である。

だが、小学生だった自分はその悪魔のキスから逃れられるはずもなく、何度もブチュっとされた。

おじさんの唇は妙に柔らかく、しかし生臭く、キスしてるんだか刺身を食ってるんだかわからねえ、みたいな気持ちになったことを覚えている。

そのおじさんが、死んだ。

秋の鰯雲が広がる空に向かって、「あれ、あたしのファーストキスだったんだからね!ありがたく思え!」と念じる。

いつか、女性から言われてみたいと願っていた、かのセリフ。まさかそれを自分が、親戚のおじさんに贈ることになるとは。人生とは、わからないものである。

おじさんの笑顔が遠い雲の向こうに思い起こされる。

それと同時に、おじさんの唇の生臭さも思い起こされる。

以上、僕がいかにキス偏差値が低いかの話である。思い出し書きしながら、何回かえずいた。

 

 

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