第25回 
神と理屈はだいたい同じ



最初の一歩を踏み出す決断

 ジャイロモノレールの研究を始めたのは、模型の師匠ともいえる井上昭雄氏がそれを作られたからだ。金属製の大きな模型で、何十時間も費やされた大作だった。けれども、ジャイロを回しただけでは自立はしない。結局その模型は機能しなかった。井上氏から「どうしたら良いだろう? 森さんだったら理屈がわかるのでは?」と相談を受けた。
 直感的に、僕は不可能だと感じた。できるはずがないと。成立する道理がない、と考えたからだった。
 ところが、調べてみると、道理はあった。百年もまえの文献に、数式が記されている。一般公開された情報だ。それなのに、誰もそれを解読しなかった。何故かというと、残っているのは、特許申請に使われた書類や図面ばかりで、つまり真似をされないようにわざとわかりにくく書かれていたのだ。
 ジャイロモノレールは約百年まえに実物が存在した。今は残っていない。唯一現存するのは模型であり、これも動く状態ではない。方々を調べてみると、「あの技術はトリックだった」と述べられているものさえあった。見せ物の手品であって、実際には不可能な技術だと。
 僕もそう感じたのだ。技術者の勘である。しかし、とにかく数式を最初からトレースし、理屈を確認してみた。すると、驚いたことに、どこにも間違いがない。物理的に成立する現象なのだ。
 こうなると、なんとか実現してみたくなる。とにかく実験してみよう、と模型を作ることにした。
 ところが、これが非常に難しい。理論どおりにはいかない。ジャイロが振動して制御が不安定になり、理論の作用を機械的に実現できないのだ。失敗を繰り返すばかりだった。
 もし、僕が井上氏のように実験からスタートしていたら、ここで諦めただろう。実現は無理だという結論に達したのにちがいない。おそらく、多くの技術者が、この百年の間に挑戦し失敗をしたのではないだろうか。現に、その種の記録も数例伝えられている。
 しかし、理論は正しい。理論を理解することは、たとえるなら、神を信じるのと似ている。必ずできるという自信を生み、だからこそ、諦めずに実験を続けられる。
 僕もそうだった。絶対にできるはずだ、とわかっているからその道を歩き始めたし、ゴールがあるとわかっているから進むことができる。なにか工夫が足りないからできないだけだ、と考える。無理なのでは、という疑問を最初から持っていない。そういう強さがある。

 

努力は苦しくない

 神を信じる人は、それで良い。僕は理屈を信じる。最初に考えて、目標を定める。道筋を見通す。そうなったら、あとは最も簡単な「努力」をするだけで良い。バイトみたいなもので、誰にでもできるのが、「努力」である。一歩一歩進むだけ。ゴールを信じることの難しさに比べれば、努力はむしろ楽しいほど易しい、といえるだろう。
 努力が苦しいのではない、上手くいかない場面になって、どうすれば良いかと迷うことが苦しい。わからないことが苦しいのだ。ここで、また理屈を編み出す。やることが決まる。するとあとはそれを試してみるだけだ。労力が必要で疲れることはあるけれど、迷いがなければ苦しくはならない。
 結局、地図があって道がわかっていれば楽しいハイキングであり、道に迷ってしまえば遭難となる。この差は、正しい道を知っているかどうかであり、最終的には、生き方の理屈の有無ということである。
 理屈は、人の頭が生み出すものだ。それによって、苦も楽となる。がむしゃらに歩くのではなく、まずは自分の理屈をしっかりと持つことが第一。
 ちなみに、成功した人のあとについていく場合は、道が既にある。理屈はなくても、安全な道を歩ける。この方法も無難ではある。先人に学ぶとはそういう意味だ。けれど、それではちょっとつまらない。楽しみは半減する。仕事は、楽しさよりも効率が優先されるから、それで良い。でも、自分の人生は、効率よりも楽しさを優先したいのでは?

 

ロングドライブ

 数日まえに、奥様(あえて敬称)と二人で、二千キロほどのドライブをしてきた。四日かけてである。これだけ走ると、けっこう風景が変わるものだ。風景が面白いのは、老人の特性で、僕たちはもちろん老人である。
 娘と犬たちが留守番だった。僕はこういうときに、遺書を書いて出かける習慣である。いつ死んでも良いと思っている。綺麗事ではなく、本当にそう信じている。

 

庭園内では人間も犬も自由である。どこへも行けるし、なにをしても良い。問題は、どこまでが庭園内かだ。