「いま誇るべき日本人の精神」(ベスト新書)を上梓。日本人は戦後いかに変わり、そして大事なものを失ってしまったのか。また日本人が本来もつ美徳とは何なのか。保守派の重鎮である加瀬英明氏から話を聞いた。

 私たちは、明治以後、日本と西洋の二つの文化の狭間に生きることを、強いられてきた。日本の伝統といえば、天皇家と、短歌がある。

 

  天皇も、短歌も、古いものだが、どうしていまでも二十一世紀の現代日本のなかに、息づいているのか。

 西洋の詩は鮮烈な個人体験を、訴えるものである。それに対して、日本で詠まれてきた短歌というと、和歌や、俳句は個人としての私の存在や、作者の個性が希薄だ。だから、誰であっても、自分をそのなかに、容易に移入できる。
  日本と西洋とにおける人間存在のありかたが、詩のありかたに反映されている。

 天皇家と短歌は歴史を通じて、一体となってきた。
  今日でも、天皇がそれをなさらなければ、天皇でなくなってしまうことが、二つある。神道の祭祀を親しくなさることと、短歌の伝統を守ることである。
  超近代都市である東京の真んなかに、緑の小島のように皇居が浮いている。
  皇居の中央に、天照大御神、歴代の天皇、全国の地祇(神々)を祀った宮中三殿があって、天皇が親しく古式に則って、祭祀を執り行われる。
 年頭に催される宮中歌会始も、古い伝統を持っている。
  今日でも、皇后が毎月、皇族方に御題を出されて、皇族方の歌を皇后の手元に集めることが行われている。これは、単なる優雅な遊びということでは、説明できない。
  このように詩と結びついている皇室は、日本だけにみられることだ。

 今日の私たちとちがって、古代の人々は言葉が神聖なもので、言葉に大きな力が籠っていると、信じていた。
  私たちの祖先は、言葉が物質を変える力を備えているという、言霊信仰をいだいていた。
  中東でも、西洋でも、同じことだった。『新約聖書』の冒頭の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネの福音書)という句があるように、言葉に呪術的な力が宿っていた。
 キリスト教では、「ベネディクション」と「マルディクション」というが、ラテン語で「よき言葉」と「悪しき言葉」という、意味である。今日でも、司祭がミサで「御言葉に感謝」と呼びかけてから、信者に向かって、『聖書』の一節を読むことが行われる。
  神父が英語であれば、”This is a word of the Lord”(これが主の御言葉だ)といい、信者がいっせいに、”Thanks to the Lord”(主に感謝せよ)と、応える。

 歌会始をテレビを通じてみると、かつて言葉が神聖なものであった神代の力が、籠っている。言葉にまわりを清める力があり、そのなかで精神がたかまってゆく。
 先人たちは、短歌の五七五といったリズムに、魔術的な力を感じたにちがいない。日本語の三音から七音までのリズムは、五七五のどの音数をとっても、神事や、会合の終わりに当たって行う、手拍子と同じような、神秘的な力を感じさせる。短歌を口にだして詠まなくても、そのリズムを心のなかで、感得するものだ。
 詩は東西を問わず、言葉の組み合わせに備わるリズムを使って、成り立っている。
  西洋では、ギリシア文学にはじまるiambicという弱強抑揚のリズムがあるが、英文詩におけるペンタミーター(長短々五歩格)をとれば、一行のなかに、五つのリズムが仕込まれている。

 短歌には、西洋の詩における、「私」という視点がない。
  短歌は読む者が、そのまま自分の体験として味わうことができる。キリスト教の祈祷文には、私と主なる神の二つの言葉が繰り返しでてくるが、神道の祝詞には、私という立場がまったく欠けている。
 私たちは伝統を尊べば、落ち着いた生活を営むことができる。落ち着いた生活は、力を生む。
  伝統をおろそかにすると、きまり悪い生活を送ることになる。なじまない環境は、不安にさせる。人は立っている大地が、しっかりと安定していなければならない。
 私たちの社会は、生者だけの世界ではない。先人との共同作業なのだ。
そうでなければ、糸が切れた凧のように、あてもなく漂うことになる。先人たちが糸を支えている。