確かにハワイ作戦には連合艦隊司令長官という職を賭したが、開戦反対には職は賭さなかった。開戦反対に職を賭すとは単なるポストではなく軍人という地位を賭すことである。いやそれ以上に“日本人”という地位を放棄する覚悟が必要だった。

 海軍次官として日独伊三国同盟に反対していた頃、すでに護衛という名で監視のために憲兵が身辺にまとわりついていた。陸軍のその筋に示唆された活動右翼が、暗殺目的で次官室に訪ねてきたことも一度や二度ではなかった。上司の海軍大臣米内光政の暗殺計画や親英米派暗殺計画もあった(1940年7月5日発覚)。

 そういう環境だったから、日米開戦に職を賭せば、非国民のレッテルを貼られ、憲兵に拘束され、反戦思想を説いた罪で裁判に付される危険性もあった。反戦思想は、当時、罪であった。

 山本はそこまではやらなかった。山本は国の前途を憂う国士ではあったが、海軍大臣の決定には無条件で従う海軍軍人であり、たとえそれが無謀ではあっても天皇の命令には絶対服従する軍人だった。自分の身体は天皇に捧げる身体だという観念が骨の髄まで染み込んでいた。

 生出氏は山本が海軍次官のあと、同職にとどまるか海軍大臣のポストに就くべきだったという。確かにそうである。そうであれば、あるいは日米開戦を阻止出来た可能性がいくらかはあったかも知れない。山本も平沼内閣崩壊後に次官に止まることを希望した。

 しかし、激しい右翼攻撃で暗殺される危険性を心配した米内は、山本を敢えて海上勤務が中心の連合艦隊司令長官に指名したのだった。人事は、山本の思惑ではどうしようもないことだった。そういう経過をたどっての開戦となったが、生出氏はその後のハワイ作戦やミッドウェー海戦に関しても厳しい見方を披露している。

日独伊三国軍事同盟の締結は、日本の戦争への道を加速させた。