<第58回>

11月×日

【「ぽけっとてぃっしゅ」(後編)】

 

(前回からの続き。「知らない人からモノをもらってはダメよ」という亡き曾祖母の教えにより、普段、街のティッシュ配りの人からのティッシュは受け取らないというワクサカさん。そんなある日、「革命が起きた」…!?)

さかのぼること一週間前。僕の家の最寄りの駅前に、ひとりの青年が立ち始めた。ティッシュ配りのアルバイターだ。

初めて彼と目が合ったとき、予感がした。

「あ、僕はこの人からティッシュを受け取る…」

そして予感はすぐさま本当のものとなり、ごく自然にポケットティッシュを受け取った自分に軽く狼狽した。「ありがとうございます!」と、ソプラノ声の彼。彼と僕との間に、爽やかな風が流れた気がした。

彼は、まさしく天才であった。

彼は、僕に対して確実にティッシュを渡してくる。緊張感を与えない間合いは完璧で、それはすでにただのコツを凌駕している。

春の大地に菜の花が芽吹くごとく、ごく自然に、気づけば目の前にティッシュが差し出されている。それを僕は、まるでワルツに誘われたパリの生娘がごとく、おどおどとした手で、しかししっかりと、受け取っている。

彼は誰に対してもこの一流の仕草でティッシュを配っている。そして誰もが、彼の見えざるタクトに操られるかのように、夏の夜の夢に浮かされた表情で、ティッシュを受け取っているのである。

なんだか表現がシェイクスピアシェイクスピアしてきたのでこの辺りでやめるが、彼はおそらくこの世で五本の指にはいる、「ティッシュ配りのプロ」であった。

不思議なもので、彼にティッシュを差し出されると、自然と身体が反応してしまう。

命令されたわけではないのに、「受け取らなければ申し訳ない」という気持ちになるのだ。

そして今日。彼はまたしても、駅前に立っていた。

彼の元へ、吸い込まれるように歩み寄っていく。

その時である。ふと、違和感を覚えた。

彼の手に、ポケットティッシュがふたつ、握られていたのである。

さすがに今日、僕はポケットティッシュをふたつも必要としていない。鼻炎でもなければ、このあと「蛍の墓」を観る予定も、24時間マラソンのゴールを見届ける予定もない。

それでも、従順に彼からポケットティッシュをふたつ受け取っている、自分がいた。

その刹那。彼が「ニヤリ」と笑った気がした。

飼い主が誰で、飼い犬が誰か、決定的になった瞬間であった。

僕はいま、非常に危険な状態である。

もし明日、ポケットティッシュに彼の電話番号が書かれていたとしたら…。

僕は知らない世界への扉の錠前を、ひとりのティッシュ配りの青年によってこじ開けられようとしているのかもしれない。

もし今回のこの日記をヒントに「ぽけっとてぃっしゅ」というタイトルのライトノベルを書きたくなったら、一報ください。印税の相談をしましょう。

 

 

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