第26回 
仮説で切り開くフロンティア



努力が難しい理由

 理屈を持っていれば、あとは簡単な努力だけ、という話をした。しかし、多くの方が「その努力が大変なのではないか?」と疑問を持たれただろう。スポーツ選手とか財界人とか、成功した人が語る「苦しい努力」の積み重ね、それを乗り越えてこその功名、といったものを大勢の人がイメージしているだろう。
 努力が苦しいと感じるのは、その道が正しいことを疑っている状態だからである。前回も書いたように、「道に迷った」と思うだけで、ハイキングは遭難になってしまう。そうなると、一歩一歩が苦しみになる。この「迷う」とは、何が正しいかを見失っている心理であり、つまりは、自分が信じられる理屈がない状態なのだ。
 進む方向が間違っているとしたら、今進んでいる一歩一歩がすべて無駄になる。それどころか、むしろゴールから遠ざかる徒労かもしれない。そう思うから苦しくなる。
 このような場合、まず考えるしかない。一人でなければ話し合って、暫定的な対策を練る。このようにして、生まれるのが「仮説」である。
 仮説であっても、なんらかの道理が必ずある。正しそうだ、という雰囲気がある。それをとりあえず信じて、つまり、仮説が正しいと思い込んで、また歩き始めるのだ。
 しばらくして、仮説がやはり怪しいことがわかるか、それとも、仮説が正しそうだと嬉しくなるか、いずれかに分かれる。
 このようなことを繰り返して、人間は物事を進める。人生もまったくこれと同じだ、と僕は思う。

 

「仮説」を持つことの大切さ

 研究を進めていく過程は、この仮説の構築と、それを実証することの繰り返しである。現象を説明するために仮説を組む。きっとこんな理屈で成り立っているのだろう、と考える。あるときは数式であり、あるときは単なる方向性である。
 しかし、これがないと、ただ闇雲に試すだけで、とてもではないが、努力が続かない。しんどい話になる。やはり、きっとこれが真理だ、と一時でも信じられるものが人間には必要なのである。
 チームでプロジェクトを進めるときには、各自の仮説の確からしさを比べることになる。誰の仮説を採用するかは、理屈の強さによる。多分に感覚的なものだが、たとえば、簡単な仮説の方が複雑な仮説よりも強いというのは、理系では一般的な法則だろう。また、一つの仮説が沢山の事象を説明できれば、仮説の強さが示される。
 そういった理屈の確からしさを信じて、大勢で進む方向を決める。みんなで決めたことだから、あとはそれに従って各自が自分の作業に力を注ぐしかない。
 この努力の時間が長く続き、そのわりに成果が得られないと、だんだん疑う気持ちが膨らんでくる。もしかして仮説は間違っているのではないかと。そして、あるとき、また話し合いになり、別の仮説に乗り換えた方が良いのではないか、となるわけだ。少なくとも、努力によって、その仮説を否定するデータが増えているから、状況は変わっている。やったことは完全な無駄ではない。視点が変わった効果はあったのだ。
 研究がこのような試行錯誤の繰り返しになるのは、前例というものがないためだ。成功した例が過去にない。フロンティアだからこそ、研究しているのである。
 人生も、あなたが生まれて、あなたが生きているのは、世界で唯一の条件であって、過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし、どこにも発表されていない。人生とは、フロンティアなのだ。
 あなたの生き方は、あなた自身が研究し、あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。自分の仮説を信じて進み、駄目ならば、仮説構築からやり直す。この繰り返しこそが、「生きる」ということなのである。

 

庭園内サイクリング

 二年まえ、ジェットエンジンのテストをするために中古の自転車を購入し、その荷台にエンジンを取り付けた。どれくらい推力があるか試したところ、絶大なパワーで、山道も登るし、ブレーキをかけっぱなしで走らなければならなかった。この実験結果を踏まえて、ジェットエンジン機関車を製作したのである。
 役目を終えた自転車が残っていたので、パイプを切り、ペダルの部分だけを使って、人力機関車を製作した。シートに座ってペダルを漕いで走る鉄道車両に生まれ変わった。このところ、毎日これで庭園内を一周するのが日課だ。速度計と距離計も装備。庭園内のコースが一周で五百二十メートルあることもわかった。さて、今は二つのタイヤが残っていて、この使い道を考えている。

 

「ペダルカー」と名づけた人力機関車。意外にも家族に大人気で、かつてない理解を得ている。