「聖徳太子不在説」
その根拠は一体何か?

 聖徳太子は、かつてお札になったほどの歴史上の重要人物で、その存在を疑う人はいなかった。ところが、現在では聖徳太子不在説がいろんなところで論じられている。

 そのきっかけになったのが、平成11年に刊行された大山誠一氏の『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館)という著書である。

 大山氏の問題設定は、「聖徳太子」という聖人が古代に存在したかということと、これまで教科書に書かれてきた聖徳太子の偉業については、それが事実なのかどうかという検証が必要であるということであった。そして、結論として、「聖徳太子に関する確実な史料は存在しない。現にある『日本書紀』や法隆寺の史料は厩戸王(聖徳太子)の死後1世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それゆえ〈聖徳太子〉は架空の人物である」と述べておられる。

 基本的には大山氏の問題提示は間違っていないと思われる。古代のすべての人物、事象に関して「確実な史料」などは存在しないからだ。また、『日本書紀』は養老4年(720)に完成したものであるから、「奈良時代に作られたもの」である。それゆえ、聖徳太子に限らず、すべての古代史は確実な史料をもたない疑うべき存在として認識する必要がある。

 ところが、聖徳太子は今日の天皇家に連なる人物であり、仏教界の大恩人として不可触領域に近い扱いを受けてきた。そうしたタブーに大山氏が挑戦されたことの意義はたいへん大きいということができる。

 ただし、大山氏が「捏造」と表現する史料上の疑わしい記述は、ひとり聖徳太子だけに存在するものではない。聖徳太子を取り巻く蘇我氏や物部氏などについても同様のことはいえる。もちろん、他の時代、人々、事件についても同じだ。たとえば「聖徳太子」という表現も、「聖に等しい徳をもった大王家の男子」という尊称と考えると、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない架空の人物である」という表現にもいささかの抵抗を感じずにはいられない。そもそも『日本書紀』などに記された人物名は通称にすぎず、本名とはいいがたいものだからだ。そして編纂史料には、当然の如く創作性が付随する。

 たとえば、大山氏は聖徳太子の亡くなった日を『日本書紀』が2月5日としている理由を中国の玄奘三蔵の忌日と一致することから、「仏教界の聖人である玄奘を意識して、『続高僧伝』などより叙述」したとされている。この指摘はその通りかと思うが、問題はなぜ聖徳太子が玄奘に擬せられたかということだ。この仮説自体は蓋然性があるかもしれないが、聖徳太子が玄奘に擬せられる理由は説明されていない。もし聖徳太子がそれにふさわしい人物と考えられたゆえに玄奘の忌日の2月5日も利用されたのだとすると、古代における聖徳太子と仏教との関わりの深さを否定するものではないということになる。

 これは大山氏の聖徳太子像が捏造されたとする論理にもいえることだ。大山氏は、『日本書紀』編纂時の為政者たちが「中国の皇帝と対比され得るような天皇像を示す必要」があると考え、聖徳太子をその対象としたと考えている。そして、養老2年(718)に唐から帰国した僧・道慈が理想の聖徳太子像を描く適任者として藤原不比等に選任され、「彼に『日本書紀』の仏教関係記事の述作が委ねられた」と考えられている。

 道慈が『日本書紀』の仏教関係記事をほとんどすべて記述したというのは、あくまで大山氏の仮説であり、証明されたことではない。

 天武10年(681)の帝紀・旧辞の編纂以来継続されてきた国史編纂事業が、仏教関係記事だけ、最後の2年ですべて書き換えられたと考えるのは相当な無理がある。

 道慈が『日本書紀』の編纂に関与していたとしても、また日本が中国皇帝に比する人物を欲したとしても、それがなぜ厩戸王子に擬せられたのかの説明が必要となる。それにふさわしい人物を比定者としたと考える立場もあるかと思うのだ。

 

《聖徳太子の謎を徹底解剖! 第4回へつづく》