貧しい武士の内職から始まった「入谷の朝顔まつり」。

江戸時代の身分制度上ではトップに位置する武士だが、贅沢な暮らしができる旗本(はたもと)はほんのひと握り。実に江戸に暮らした武士の7割が、御家人(ごけにん)クラスの身分で生活も楽ではなかった。そもそも、旗本と御家人の違いは将軍への拝謁資格があるか否かだったが、屋敷の拝領方式でも違いがあった。旗本は個別に屋敷を拝領したが、御家人は所属する役職の組単位で屋敷が与えられた。これを組屋敷(くみやしき)と呼ぶ。町奉行所の与力(よりき)・同心(どうしん)は組屋敷を八丁堀の地に与えられたことで、いつしか八丁堀が俗称になった。

組屋敷はおおむね、数千坪単位で与えられた。これを組の人数で分ける。町奉行所与力の場合、平均250〜350坪。同心の屋敷は100坪ほどの広さだった。組屋敷の活用法としては2つある。個々に活用する方法と、組単位で活用する方法だ。個々に活用する方法としては、空き地を農地にする一方、地代を取って貸し付ける手法が取られた。農地には茄子やキュウリを植え、自家用とした。貸付先は同じ御家人や大名家の家臣のほか、学者や医者など。御家人の組屋敷内に武士以外の者が住むのは別に珍しいことではなかった。

組単位で活用する方法としては、朝顔やツツジの栽培のほか、鈴虫や金魚といった鑑賞用生物の飼育も盛んだった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。東京の初夏の風物詩として、入谷の朝顔市は有名だが、御家人の組屋敷で共同栽培した朝顔を市場に出したことが、その始まりだった。

御家人たちは、こうした内職にいそしまなければならないほど、生活に苦しんでいたのが実情だった。例えば、御家人は俸禄米(ほうろくまい)として玄米を支給されたが、このままでは食べられない。「つきごめ屋」に依頼して精米することになるが、その経費を浮かせるため、屋敷内に踏み臼(ふみうす)を設置し、自分で白米につく者も稀ではなかった。そのため、小者(こもの)や中間(ちゅうげん)といった武家奉公人を抱えておくことなど、とてもできなかった。というよりも、家族を養うことさえ大変。だから、家事にしても妻が一人でこなすのが普通だった。着物も祖末なものだった。その一方、苦しい家計のなか子供の教育には費用を惜しまない者も少なくなかった。学問を積んで現在の東京大学ともいうべき昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に進み、その学識が認められれば立身出世への道が開ける。となれば、家禄が加増され、生活水準を上げることも可能だったからだ。

文・安藤優一郎(歴史家)