イラスト/フォトライブラリー

夜の床にまつわる噂は尽きない。独身のひとり娘で美人とくれば、あらぬ噂も立てられてしまう。 

宝暦(1751~64)のころ。遠州毛賀(静岡県細江町)の豪農にひとり娘がいて、十六歳の年頃になり、婿を迎えようとしたが、ことごとく縁談は断わられた。娘は美人であり、実家は裕福にもかかわらず、婿になろうという男がいない。いつのまにか、「あの娘はろくろ首だ」という噂が広がっていたのだ。

ろくろ首の噂は両親の耳にもはいった。幼いころから、そんな様子は見たことがない。困惑して、娘にたずねた。
「なにか思いあたることはないかい」
「いえ。まったく思いあたることはありません。ただ、時々、遠くにある山や川が夢に出てくることがあります。そのとき、首がのびているのでしょうか」娘は泣き伏した。

誰ひとり、娘の首がのびるところを実際に見た人はいないのだが、噂は近郷に広がり、婿になろうという男はいなかった。娘の伯父にあたる男が商用で江戸に出ることになった。

伯父も、姪の縁談を気にしていた。
「こういうことは、江戸でさがしてみるのがよかろう」
江戸に着いた伯父は、商売の取引先にいろいろと当たってみたが、やはりろくろ首の噂を聞くや、みな尻込みしてしまう。

あるとき、泊まっていた旅籠屋に貸本屋の若者がやってきた。神田佐柄木町の裏長屋に住む、零細な貸本屋だった。話をしてみると、人柄もまじめで、年ごろもふさわしい。
「あたしの姪にまだ縁談がまとまらない娘がいる。おまえさんさえよければ、婿に迎えたいが、どうかね」
「貧乏暮らしをしており、親戚もなく、とても支度ができません」
「支度などこちらですべてするから、気にすることはない」
伯父は熱心に勧めた。あまりにうまい話なので、若者も気になる。
「なにか、訳があるのですか」
「じつは、ろくろ首の評判がある」
「えっ」
若者はそんな裏があったのかと思ったが、即座に断わるにはあまりに惜しい縁談である。
「一日だけ、考えさせてください」
貸本屋はいったん帰宅したあと、日ごろ懇意にしている近所の森伊勢屋という古着屋の番頭に相談した。

「迷うことはない。ろくろ首なんぞ、この世にあるものか。もし本当にろくろ首だったとしても、下半身はちゃんとした女だろうよ。あそこさえまともなら夫婦はうまくいく。利の薄い貸本屋稼業をして生涯を終えるのとくらべれば、よっぽどましだぞ」

この言葉に若者も心を決め、伯父が泊まっている旅籠屋に出向いて承諾した。伯父は大いに喜び、衣装一式から脇差まで買いととのえてやり、共に遠州毛賀に戻った。

娘の両親も大喜びである。婚礼の式をあげ、若者と娘は夫婦となった。生活を始めてみると、ろくろ首の様子もなく、夫婦仲はむつまじかった。ただ、両親は婿が逃げ出すのを怖れていたのか、ひとりで遠方に出かけることをけっして許さなかった。

結婚から十年を経て、子供もできたことから、両親は婿に江戸に行くことを許した。十年ぶりに江戸に出た男は森伊勢屋に番頭を訪ね、かつて自分の背中を押してくれたことに礼を述べたという。

『耳袋』に拠ったが、世の中には、根も葉もない噂がけっこうある。このろくろ首の噂など、その典型であろう。いったん噂が広がり、月日がたつと、おそらく以下のようになるであろう。
「あそこの娘はろくろ首だとよ」
「まさか。ろくろ首など、この世にいるものか」
「じゃあ、なぜ、家があんなに金持ちで、娘は美人なのに、婿がこないんだ」「なるほど、ろくろ首だからか」
いつのまにか、結果が原因になってしまう。悪循環であろう。とくに性をめぐる噂は、当事者に確認するわけにいかないだけに、いい加減な内容がはびこっているかもしれない。