憂鬱な季節の到来・・・

 また嫌な季節がやってきた。10月下旬、街はハロウィン一色である。本来、西欧では子供のためのお祭り的色彩が強いハロウィンは、どうもこの国では、ここぞとばかりに露出を高くさせた女子と、躁的にはしゃぎまくる社交性の高い男子とが一緒になって、単にドンチャカ大騒ぎするという、なんの社会的意義もない醜悪な街頭イベントの一種になり下がっているのである。

 オランダの世界的画家、レンブラント。その作風は「光と影の魔術師」と呼ばれるほど、見事なまでの明瞭な明部と、その対としての陰影に富んでいる。やや斜め上方からの強い光が照らす彼の絵画は、その照明の手法そのものに「レンブラント」という名前を冠されるほど、絶妙で劇的な光と影の効果を醸し出している。

 私が何を言いたいのかというと、強烈な光は、かならず影を生む、ということだ。ハロウィンが躁的な「光」ならば、必ずその陰が存在する。光が強ければ強いほど、影はより強調されるのである。つまりハロウィンという光が喧伝され、持て囃されれればされるほど、そのハロウィンに参加しない(できない)人々は影の中に落とし込まれていく。
 これこそ一連のハロウィン騒動の問題の核心である。ハロウィンから排斥され、ハロウィンの放つ強烈な光の陰にいる人々は、10月下旬のこの時期を、陰鬱とした気分で過ごすことになろう。それは、ハロウィンに同調せぬ、参加できぬものの無念の涙であり、声なき咆哮なのである。

 



「ハロウィン狂騒」に感じる、「ぼっち」への排斥と迫害

 ハロウィンの仮装どんちゃん騒ぎは、かならず複数人で行われる。大学の同級なのかバイト先の仲間なのか、何なのかは知らぬが、ハロウィン狂騒の最小単位は個人ではなく、必ず男女あるいは女子のみの複数人のグループで行われる。筆者のような、友人も知人もめっぽう少なく、焼肉もお好み焼きも居酒屋もラブホテルも一人でこなしている「ぼっち」の人間にとってすれば、この「複数」を最低構成単位とした躁的なお祭り騒ぎの類には、耐え難い「ぼっち」への排斥と迫害を感じずにはいられない。
 前提的に人的資源が豊かで、そこかしこに重層的な人間関係を有する、いわゆる「リア充」は、常に複数人での飲食や遊行を行っているが、まさにハロウィンとは彼らのために存在するような狂騒に違いないのである。
 友もなく、知人もなく、ただ夜の街をやぶにらみに精一杯の虚勢を張って歩く、スタンドアローン・ローンウルフを気取ることでようやく自我を保っている筆者にとってすれば、ハロウィンは前提的に参加それ自体を無言で拒絶される排外・排他の象徴であり、そしてそれが光を放てば放つほど、そこから排斥された自身の存在する領域の影の黒さを思い知るのである。