とりわけ21世紀のゼロ年代に入ってから今日まで、この国では排外主義の嵐がすさまじい。「在日特権」なる風説がまことしやかに広がりをみせている。警察にチェックの目を入れる国家公安委員長が排外主義者らと交友を深めても、おとがめなし。

 排外主義に対抗するために、「我々」も民族意識を高めるべし。鼻息を荒げる闘士も在日コミュニティにはいる。けれど、けちくさい排外主義に対抗するために民族意識をあおっても、火に油を注ぎあうだけ。

 そもそも民族意識なるものは、口に出して人為的に育成するだけ野暮である。愛、絆、信頼、親友……口に出したとたん陳腐になる価値というものが、この世にはある。民族の誇りなるものもまた、胸に秘めながら、静けさの中でそっと育むのが美徳というものだろう。

 在日の生活はかなり多様化している。もはや強固な「我々」意識は成り立ちにくくなっているし、しょぼい民族意識のかけらしか持ちようがないのは、先に見たとおり。かといって、今日の在日は、荒ぶる排外主義を一部にかかえる日本社会に「同化」しようとも思いがたい。

 では、このような揺らぎとあいまいさの中で、在日はどう社会的な生をまっとうすればいいのか。

 一言でいえば、在日は、「我々」意識を自らの民族的なルーツだけに求めるのはもうやめよう、ということに尽きる。

 まず、在日以外のさまざまなエスニック・マイノリティ、ごく一例をあげれば東南アジアや南米からやってきた人びとは、在日を「モデル・マイノリティ」(模範的な少数派)とみなしやすい。ニュー・カマーらが、戦前からこの国に根づき、権利を享受し、それなりに生活する在日を見て「うらやましい」と感じる……。この気持ちはひとまず納得できる。

 ここで在日が「被害者性」に固執するだけでは、無責任である。今は排外主義の矛先が在日に向かっているが、今後は誰に向かうかわからない。在日はさまざまなエスニック・マイノリティの存在を確認し、受け入れ、少しずつコミュニケーションを図るべきである。できれば飲み食いしながら。

 次に、排外主義は、いつでも少数派全般の排除に転じうる。排外の「外」は海外にルーツを持つ者とはかぎらない。たとえば、性的あるいは社会的マイノリティ、すなわちLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)、統合失調症の人びと、施設で育つ子どもなどがいる。この人たちをめぐる社会的課題を視野に入れないまま、在日がザ・マイノリティを看板に活動しても、もう誰も見向きもしない。

 少数派を自認する者がほかの少数派をなじることはもとより、目に入れないということさえ、ほとんど「罪」に等しい。まわりまわって、自らが痛い目をみることになるのだから。「モデル」としての在日が、そんなしみったれた愚をおかすのは、いかにもまずい。

 最後に、今日の排外主義は、あくまでこの国の一部の者による。良心的な日本人はやっぱり多い。彼・彼女らと日々織りなす互恵的なコミュニケーションは死活的に重要である。いざというとき、広い意味での「シェルター」「おまもり」になってくれるのは、名前や顔を知る彼・彼女なのだから。

 戦後の在日の経験やノウハウはそれなりに貴重だろう。在日は、そこから得られた知恵を独占しないこと、それに安住しないこと。在日以外のマイノリティや日本の友人に経験や知恵を「開く」こと、そして彼・彼女らからさまざまに「学ぶ」こと。それが、この国を生きぬく「戦略」だと思う。

「日本人 vs. 在日」という構図は、あまりに単純化された、できの悪い戯画である。この国の社会を分裂させるフォルト・ライン(断層線)は、決して固定的ではない。逆からいえば、「我々」の範囲を決めるのは自分であって、民族なる器ではない。

 明日の「我々」が今日の「我々」とメンバーを異にすることだってある。そんな社会をつくることに、これからの在日は貢献できないだろうか。というより、そうしてこそ、在日自身もっと生きやすくなるのだと思う。

 画面の前のみなさんも、日本人たることにホッとしつつ、今日の排外主義の動きは自分と無関係とばかり考えていては、いつか痛い目を見るやもしれない。排除のターゲットにならないという保証は、どこにもない。誰だって生きていれば、探られて痛くない腹はないものだから。

 後ろめたさと不安をかかえるあなたと、僕。ここに、もう新たな「我々」ができつつある。

 

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