第27回 
気持ちを気にしすぎる気持ち

 

コメントって何?

 この文章が公開される頃には、もう終了間際だが、「犀川創平AI」というネットのイベントがあった。講談社が僕の本のプロモートで企画したもので、人工知能の犀川(小説のキャラクタ)がみんなの相手をして会話をしてくれる、というものだ。僕はまったく関わっていないので無責任に書くけれど、もの凄くとんちんかんだったのでは?
 ところで、森博嗣はデビューした当時(1996年)、読者からのメールにすべて答えていた。全部である。これを12年くらい続けた。このプロモートはけっこう効いたと思う。これからは、それをAIがやってくれる時代になったということだろうか。もう少しさきかな……。
 当時、森博嗣に宛てて書かれた読者のメールは長文が多く、オリジナリティもあり、読んでいて勉強になった。だから、返事が書きやすかった。今回、AIに対して、それほど情報量のある会話をしようとした人は非常に少ない。ツイッタだからこうなるのかもしれないけれど、挨拶か、ちょっとした質問(「コーヒーはいかがですか?」みたいな)か、あるいは、小説の中の台詞そのままのものが大部分だった。
 受信オンリィが多数になった時代なのかな、とも感じてしまった。会話をしたい、でも、何をどう話しかければ良いのかわからない、という人が多かったのだろう。きっと、実際の対人関係でも、「発信不得手」がジレンマとなるのではないか。
 この「犀川AI」企画について、マスコミからコメントを求められた。そこで僕は困ってしまったのだ。というのも、僕には興味もなく、特にコメントはない、というのが素直なところだったからだ。
 僕自身、おしゃべりではない。でも、小説は書ける。小説の中でおしゃべりな人も書ける。そんな僕でも、コメントというのは難しい。
 コメントって何だろうか?
 多くの場合、「よろしくお願いします」といった言葉を引き出したいのだと思う。英訳が難しい日本語特有の台詞で、なんとなく自分はそれに寄り添っています、という姿勢や立場を表明したものである。しかし、正直な僕は、どうして僕がよろしくお願いしないといけないのか、その理由がさっぱりわからないのだ。それに、僕がお願いしたところで、相手にどの程度の効果があるのかも疑わしい。
 「よろしく」の意味は何か?
 笑顔で対応しているイメージだろうか。好意的な感情を言葉で示しているのはなんとなくわかる。たぶん、表情に乏しい日本人だからこそ編み出されたものにちがいない。

 

寄り添えない人の道

 基本的に、僕は感情で仕事をしているのではない。ここを間違えないでほしい。対価が得られるから、労働をしている。やりたくてやっているのではないから、そもそも意気込みというものがない。だから、コメントを求められたときに「よろしく」という笑顔が素直に出てこないのか……。きっとそうだろう。
 現代人の多くは、「気持ち」を大切にしている。周囲の気持ちを読み、自分の気持ちを同調させる。みんなと同じ気持ちになろうとする。同じように感じなければならない、という強迫観念に支配されているようにさえ見受けられる。
 そして、自分の人生についても、みんなの気持ちを気にして、人に寄り添った人生を思い描こうとする。これが上手くいく場合は良い。だが、そうでない人もいる。寄り添おうにも、相手がいない人だっているのだ。そうなると、自分の気持ちまで不安定になって、ついには自滅の道へ突き進む。自滅ならまだ良い方だ。他者に認められたい気持ちがあるためか、社会を巻添えにした破滅を演出しようとする例もある。
 そんな悲劇的なことを、ときどき考えてしまう。そうなりそうな人は、まず、自分に寄り添った方が良い。自分の気持ちをじっくりと理解すること。無理に、他者を自分の人生に取り入れる必要はない、と考えることで危険を避けられる。

 

それで、コメントは?

 どうコメントしたかというと、「質問して」と要求し、相手の問いに答えた。だいたい、マスコミの質問は、「森先生はAですが、Bについてはいかがですか?」と一般化できる。僕の答は、「いいえ、僕はAではありません」か、「僕がBをどう思おうと、Bには無関係です」のいずれかである。
 よくわからない人は、「あなたは白鳥座についてどう思いますか?」という質問に答えてほしい。
 今は、毎日庭に出て落葉掃除をしている。僕は、落葉についてなにもコメントはない。僕がどう思おうが、秋になれば葉は落ちる。

まだ落葉は少なく、線路が見える。庭園鉄道は年中無休なので、この時期は落葉掃除が日課。